平成12年9月6日から10日間、S 旅行社の標記のツアーに参加しました。
まずは旅のルートをご紹介しましょう。
左図のように、チェコのプラハから入り、プラハ市内及びその郊外を2日間観光後、ブルノ経由、スロヴァキアの首都プラチスラバ、オーストラリアの一部(アイゼンシュタット)の両都市を各1日、最後にハンガリーの各都市を3日間観光して、ブダペストから帰国しました。
フライトルートは次の通りです。
(往路) 成田→フランクフルト→プラハ
(帰路) ブダペスト→ロンドン→アムステルダム→成田
チェコの首都プラハは西部のボヘミア地方を縦断して流れるモルダウ川の河畔に開けた都市で、神聖ローマ帝国帝都時代には数多くの教会や大学が設立され、ヨーロッパ文化発展の担い手としてその名をはせたところです。当時のパワーはパリやロンドンをも凌ぐほどだったといわれ、「黄金のプラハ」と呼ばれていたそうです。15世紀の宗教戦争以降、町の歴史は時代の波に翻弄され続けることになりますが、市内に残るロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックなどさまざまな建築様式の建物が、繁栄当時の面影を今に伝えています。
確かに評判通りの美しい町で、小高い丘の上に建つ街の象徴プラハ城を初め、30体の聖像が両側の欄干を飾るヨーロッパ最古の石橋カレル橋、「プラハの春」事件で多数の犠牲者を出したヴァーツラフ広場など見どころに富み、重ねてきた歴史を感じさせました。
下の写真左は、プラハ城の一部を構成する聖ヴィート大聖堂内のステンドグラス、右の写真はプラハ城構内からのプラハ市街の眺めです。
(枠のある写真はクリックすれば拡大できます。以下同じ)
次の左写真は、カレル橋欄干上の聖像のひとつザビエル像で、右の写真は、カレル橋からプラハ城を眺めたものです。
右の写真は、プラハの代表的観光名所のひとつヴァーツラフ広場です。広場というよりも大通りと呼ぶ方がふさわしい雰囲気ですが、1968年の「プラハの春」や1989年の「ビロード革命」など、国際政治の荒波に翻弄されてきたプラハの現代史を見つめてきたところです。
左の写真は、プラハの西南140kmに位置するカルロビ・バリという町で、ボヘミア最古の歴史と最大の規模を誇る温泉保養地です。
起源は14世紀頃で、最も賑わったのが18世紀以降とのことで、モーツアルトやベートーベン、ブラームス、ショパンなどの著名音楽家を初め、ゲーテ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、トルストイらの文豪たちもここを訪れ逗留したといわれています。
温泉といっても基本的に日本と違うのは、温泉の湯に浸かるのではなく、鉱泉を飲んで身体を治療するもので、街のあちこちには、カップで温泉を飲むための飲泉場が設けられています。
次の左写真は、ハンガリーのベネディクト派の総本山パンノンハルマ修道院で、創立は10世紀末にまで遡り、その後、13世紀前半のロマネスク様式の大聖堂を初めとする増改築が繰り返され、現在の姿になったもの。修道院内には貴重な文献や絵画が納められ、世界遺産にも登録されています。
右の写真は、9世紀以来の歴史をもつハンガリー最古の都市、セーケシュフェヘルバールの中央広場です。11世紀の初代国王イシュトヴァーン1世の時代から16世紀半ばにかけて首都として繁栄しましたが、その後、トルコ軍によって破壊され、現在の街並みは18世紀のハプスブルグ時代に再建されたものだそうです。
左は、ハンガリー・カトリックの総本山、エステルゴムにある大聖堂の内部で、正面祭壇の絵画は、グレゴリッティの「聖母被昇天」です。
ここエステルゴムの町の歴史は、10世紀まで遡り、ハンガリー王国発祥の地として知られており、1241年のモンゴル来襲まで王国の中心として繁栄したそうです。
ヨーロッパ大陸を縦断するかのように流れる長大なドナウ川。その河畔に点在する街々のなかでも「世界で最も美しい街」のひとつと謳われ、ひときわ華麗を誇っている街がハンガリーの首都ブダペストです。「ドナウの女王」「ドナウの薔薇」「ドナウの貴婦人」あるいは「東洋のパリ」など、街を形容する言葉の多さからもその素晴らしさをうかがい知ることができましょう。ちなみに、ブダペストそのものは、1872年にドナウ西岸のブダ地区と東岸のペスト地区が合併して誕生した街で現在は人口200万余を擁する中欧一の都市となっています。