ルートウィッヒ2世

ノイシュヴァンシュタイン城を観光するには、どうしても建築主である当時のバイエルン国王、ルートヴィッヒ2世のことを知る必要がありますので、以下、Wikipediaから抜粋したものを記します。

即位以前

ルートヴィヒは父マクシミリアン2プロイセン王女でプロテスタント(後にカトリックに改宗)のマリーとの間にニュンフェンブルク城で生まれ、その3年後に弟のオットー1が生まれた。ルートヴィヒが生まれて3年後、祖父であるルートヴィヒ1が退位して父が国王として即位し、祖父と同じ名を持つルートヴィヒは王太子となった。父が執務で忙しかったため、彼はその暇な時間をゲルマン神話と騎士伝説などの物語を読む時間にあて、それが彼に大きな影響を与えることになる。

18638月にミュンヘンの宮殿で、ルートヴィヒはプロイセンの首相オットー・フォン・ビスマルクと会見をした。ビスマルクとルートヴィヒはこの後に対面したことはないが、ビスマルクは執務室にルートヴィヒ2世の絵を飾るほど好意を寄せ、ルートヴィヒは友情に近い尊敬の念を持っていたといわれる。

若きバイエルン王

1864310日、マクシミリアン2世が逝去。ルートヴィヒは王として戴冠を受けることになる。彼は王の仕事として宮廷秘書のフィスターマイスターに命じ、早速幼少の頃から憧れであった作曲家ワーグナーを宮廷に呼び招いた。当時、放蕩がたたって経済的に苦しかったワーグナーにとって願っても無い話であったが、多くの家臣は噂の悪いワーグナーの召喚を快く思わなかったのである。

結局、王は家臣の反対を受け入れ、186512月、ワーグナーを一時追放した。それから王は執務を嫌うようになり、幼い頃からの夢であった騎士伝説を実現すべく、中世風のノイシュヴァンシュタイン城など豪華な建築物に力を入れるようになった。また彼はルイ14を敬愛しており、ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキムゼー城、またトリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を建設した。

1866普墺戦争が勃発し、バイエルンはオーストリア側で参戦することになった。戦争を嫌うルートヴィヒは退位さえ考えたが、結局、議会の要求どおり動員令に署名した。戦争には敗れ、バイエルンはプロイセンに対して多額の賠償金を支払うことになる。

ルートヴィヒ2世は女性に興味が無く、ホルニヒなど美青年たちを愛していたが、唯一人、心を許していた女性がいた。自分と同じヴィッテルスバッハ家の一員で従姉のオーストリア皇后エリーザベトである。彼女もまた彼と同じく堅苦しい宮廷を嫌い、逃避行を繰り返していた人物である為に、お互い心を通わせた。王の将来を心配していた皇后は、自分の妹であるゾフィーを王妃として推薦したが、ルートヴィヒはゾフィーに無関心で婚期を延ばし、ついに婚約を解消した。家臣らも驚き、エリーザベトも彼の態度に怒りを覚えたのである。

精神病?

1870普仏戦争で弟オットー1が精神に異常をきたしてしまう。ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界に入り、昼夜の生活が逆転してしまう。王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃された、と言われる。

危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒの退位を企み、王に忠実であったディルクハイム伯爵の反対を押し切って、1886612にルートヴィヒを逮捕する。代わりに政治を執り行ったのは叔父の摂政ルイトポルト王子であった。ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日の613日にシュタンベルク湖畔で医師のフォン・グッテンと共に水死体となって発見された。その死の詳細は未だ謎のままである。その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べた。

生前ルートヴィヒは「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と言い残した。それは彼が城を自分の世界にとどめたかった意思からきた言葉であったが、地元の住民らはその美しい城を壊すことができずにそのまま残し、現在は観光施設を兼ねた文化財として生き続けている。

ルートヴィヒ2世の精神病について

ルートヴィヒ2世は一般に精神病のために退位させられたとされるが、実情はバイエルンの恐慌にその原因があったとされる。バイエルンは、1866年の普墺戦争におけるプロイセンとの講和条約のために多額の賠償金の支払義務があり、さらにルートヴィヒ2世の相次ぐ城の建設、政情不安などによる恐慌が起きていた。そのため、責任を問われた総理大臣ルッツらが、フォン・グッテンら4人の医師に王を精神病と認定させ、禁治産者にすることを決定したのである。この点に関しては議論があるが、少なくとも4人の医師が実際にルートヴィヒを鑑定した記録はなく、証言者の信頼性に乏しい証言、観察をもとに診断書を作成したことは事実である。上記記述の中の、「王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、」というのも、証言からの引用であり信頼性は薄い。しかし、彼は夜を好み、ホーエンシュヴァンガウ城の自室の天井画を、昼の絵から夜の絵に描き換えさせたのは事実である。当時の診断書によれば精神錯乱という病名を付けられているが、その内容はあたかも取ってつけたような内容であり、精神医学の観点から見ても、医学が政治に利用された愚かしい一面である。