ユダヤ人の歴史とパレスチナ問題(2)

 

1945

 

1947

 

 

 

 

 

1948

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1956

 

 

1967

 

 

 

1969

 

1971

 

 

 

1973

 

 

 

1975

 

 

1978

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1980

 

1987

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2005

第2次世界大戦が終了すると、ユダヤ人が450万人も住んでいたアメリカが、パレスチナにユダヤ人国家をつくることを支持し始める。

国連のパレスチナ分割案

パレスチナの人口197万人のうち60万人しかいなかったユダヤ人にパレスチナの56.5%が与えられるという内容

 

 

 

アラブ人激怒

内乱

 

イスラエル国建国宣言

 初代首相 ベングリオン  パレスチナ難民の始まり

 

第一次中東戦争

 シリア、レバノン、トランスヨルダン(現ヨルダン)、イラク、エジプトの5カ国がイスラエルに攻め込む。

 (アラブ兵 153,400 vs  イスラエル兵 30,000)

 イスラエル陥落寸前のところで、イギリスによる2週間の休戦協定

→ イスラエル側の逆転勝利。ヨルダン西岸とガザ地区を除く地域がイスラエル(ユダヤ人)のものになる。

 

第二次中東戦争(スエズ戦争)

 イスラエル軍、シナイ半島を制圧するも、国際世論の非難により撤退。

 

第三次中東戦争(六日間戦争)

 イスラエル領土を4倍に拡大。ヨルダン領であったエルサレム旧市街も取り返す。

 

アラファトがPLO(パレスチナ解放機構)の議長になる。

 

 ヨルダンにPLOを頼りにしたパレスチナのゲリラ組織が集まりすぎ、徐々に無秩序状態に。→ PLO、ヨルダンを追われ、レバノンに逃れる。→ 今度はレバノンがイスラム教徒 VS キリスト教徒の内戦状態に。

 

第四次中東戦争

 エジプトのサダト、イスラエルからシナイ半島を取り返すため攻撃。イスラエルが反撃に成功したところで停戦。

 

 イスラエル軍、パレスチナ・ゲリラを討つため、レバノンに攻め込む。ベイルートを占領してPLOを攻撃。

 

キャンプ・デービット合意

 エジプト イスラエルの存在を認め国交をもつ。

 イスラエル→シナイ半島をエジプトに返還。ガザ地区ヨルダン川西岸地区のパ

レスチナ人に自治権を認める。

 

エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相はノーベル平和賞を受賞。しかし、サダトは、この和平条約に不満をもつアラブ・イスラム過激派に暗殺されてしまう。

 

 アラファト、次の受け入れ先であるチュニジアへ。

 

 第一次インティファーダ始まる。

 イスラエルの占領に対するパレスチナ人の抗議運動

 パレスチナ人の子供や若者たちは、イスラエル兵を見ると石を投げて抗議。

 しかし、ロードマップの第一段階「テロと報復の停止」すら達成できすにロードマップは破綻-----

 「テロリストをイスラエルに入り込ませないようにする」という目的で、シャロン政権はヨルダン川西岸にコンクリートの壁を作り始めた。高さ4〜8m、最終的には680kmにもなる壁となり、これによりヨルダン川西岸の50%以上がイスラエル側に取り込まれることになる----- 国際的な非難の的になる

                       ↓

                   ガザ地区の返還にいたる----