マラッカ

 

1396年スマトラ王により発見され、1400年にマラッカ王国が誕生し、中国やインド、アラビア、ヨーロッパの人々との東西貿易の中継港として栄えた古都・マラッカ。

マレーシア発祥の地ともいえる街で、イスラム教もこの地から広まったとか。

16世紀以降はポルトガル、オランダ、イギリスに支配されたこともあり、街にはヨーロッパの影響を受けた街並みと、地元マレーとの融合で出来上がった特有の文化を見ることができ、2008年7月には、ペナン島・ジョージタウンと共にマレーシアでは初のUNESCO世界文化遺産に登録されている。

オランダ広場

ここはマラッカ観光のスタート地点になる広場。1642年、香辛料を求めてアジアへ進出し着々と勢力を伸ばしてきたオランダが、それまでの支配国ポルトガルからマラッカを奪略して、その後マラッカは東南アジアの商業センターとして発展してきたが、今なおこのオランダ広場には、噴水を中心に、教会や時計台、旧総督邸等オランダ統治時代の建物が立ち並び、当時の面影を現在に伝えている。

我々が訪れた時も、マラッカ随一のシャッターポイントとあって、多くの観光客で賑わっていた。

 

まずは、1753年に完成したオランダ建築の代表例とされる木造のプロテスタント教会 サーモンピンクの壁に映える純白の十字架が印象的で、高さ30mの教会の天井の梁は、継ぎ目のない一本の木を使い、組み合わせにも釘を一本も使っていないという高度な建築手法が用いられている由。

面白いことに、ここでは英語・中国語・マレー語・タミール語と各言語別にミサの時間が割り振られていること。多民族国家ならの配慮と言えよう。

次いでキリスト教会の隣に建つスタダイス(旧総督邸)。現在はマラッカの歴史博物館となっており、 マラッカ王国時代に始まり、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地時代、日本軍の占領時代、そしてマレー連邦として独立するまでのマラッカの歴史を紹介している。また、スタダイスに隣接する時計台噴水は英ビクトリア女王に捧げるために1904年に造られたものとか。

 

セントポール教会跡

次いで熱帯の炎暑の中、小高い丘に続くジグザグの階段を登り、セントポール教会跡へ向かう。

階段を登りきったところにザビエルの像が我々の訪問を歓迎するかのように迎えてくれた。

ここは、マラッカ王朝を駆逐し、占領したポルトガル軍によって1521年に建立されたカトリツク教会跡。後にプロテスタント派のオランダ人の埋葬所として利用されたため、現在は外壁と内部にその当時の墓石が残されている。墓石の中には「JAPONENSIS」と、日本人であっことを窺わせる刻字もあり、興味深いものがあつた。

一方、祭壇があったと推察される教会内部東側正面には日本でもお馴染みのイエズス会のフランシスコ・ザビエルの聖骸が9カ月間安置されていた由。不思議なことに、その間、腐敗することがなかったといわれ、「IHS」と刻まれた金網で囲まれたこの場所は、この地を訪れるイエズス会の会員、カソリック信者にとって神聖な場所となっているとか。

また、人出を見越してか、遺跡内には、ギターを抱えたストリートミュージシャンの歌声が響き渡っていた。

なお、このセントポールの丘は、眼下にマラッカの町を見渡せるベストビューポイントとあって、信者でない人々の間でも人気があるらしい。

 

ファモサ要塞跡

次いで、セントポールの丘を登ってきたほうと逆の南側に下りていくと、眼下に石造りのファモサ要塞跡の重厚な門構えが見えてきた。その佇まいは、急ピッチで街の近代化が進む中、いかにも取り残された感があるが、これまでの歴史的使命を必死に訴えているかのようであった。

ここは、1511年にマラッカ王朝を駆逐し植民地経営に乗り出したポルトガルによって建造された要塞跡で、別名サンチャゴ砦とも呼ばれているとか。シンプルだが堅牢で、中世ヨーロッパのデザインを今に伝える貴重な建造物である由。

当時は、マラッカ海峡から攻め込んでくる外敵の侵入を防御するため、司令本部を含むセントポールの丘の周囲をグルリと囲む高さ5メートルもの城壁が築かれていたが、防壁は19世紀にイギリスによって取り壊され、現在はこのファモサの門と大砲のみが残されている。

設置当時、この砦の外側は海で、現在、この砦からマラッカ海峡の海岸線まで約700メートルあるが、すべて埋め立て地だというから驚きである。

なお、右端の画像は門の裏側から撮ったもの。

 

これにて、午前の部の観光を終了し、再びバスに乗り込み、10分ほど走ったところにあるレストラン「瓏華酒華」にて、8〜9人ずつ丸テーブルを囲んでのニョニャ料理の食事となる。

その昔、中国から移民してきた中国人と地元のマレー人が結婚し、彼らの間に生まれた子や子孫の男性はババ、女性はニョニャと呼ばれ独自の融合文化を生み出した。その代表がニョニャ料理とのこと。言わば中華料理とマレー料理の混合料理ということになる。

大皿に料理ごとにどんどん運ばれてくる方式は中華式だが、味のほうは純粋の中華とは確かに一味違うようだ。

 

チェン・フー・テン寺院

午後は1軒の土産物店に立ち寄った後、チェン・フー・テン(青雲亭)寺院に向かう。

ここは1646年に建てられたマレーシア最古の中国寺院で、中国名では青雲亭寺院という。

明の永楽帝の命を受けマラッカ大航海を支持した「鄭和」を称えて建てられた寺院で、そのため中国南部の建築様式を取り入れ、屋根には陶磁で出来た繊細な中国の美しい装飾が施されており、見応えのあるものであった。

寺院の内部にも様々な装飾が施されていたが、とかく素朴で優美な装飾を好む我々日本人からみると、ややけばけばしい感じは否めなかった。

 

ちょうど雨になったこともあり、早々にバスに引き上げた次第。

 

戻る