インドの概況

 

              I            プロローグ   
インド India アジア中南部、インド亜大陸の大部分を占める共和国。正式国名はインドで、イギリス連邦に加盟する。ヒンディー語では「バーラト」という。北は中国、ネパール、ブータン、東はバングラデシュをはさんでミャンマー、南はパーク海峡をへだててスリランカ、西はパキスタンに接する。東のベンガル湾にうかぶアンダマン諸島、ニコバル諸島もインド領である。独立以前はイギリス領インドと多数の藩王国からなっていたが、1947年インドとパキスタンに分離して自治領として独立、50年に共和国となった。面積は帰属の決定していないカシミールをふくめて3165596.00km2で、日本の約8.5倍。人口は984003683(1998年推計)。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ(ボンベイ)。

 

              II         国土と資源  

              1          地形  
国土の大半はインド洋につきでたインド半島にあり、東はベンガル湾、西はアラビア海に面する。地形はヒマラヤ山脈、ヒンドスタン平原、デカン高原、東西ガーツ山脈の4つに大別される。


ヒマラヤ山脈はインド北部を東西にはしる大山脈である。長さ約2400km、幅約160320kmにおよび、世界最高峰のチョモランマ(標高8850m)、第2位のK2(8611m)、第3位のカンチェンジュンガ山(8586m)、カシミールの主峰ナンガパルバット山(8125m)などの高峰がつらなる。


ヒマラヤ山脈の南にはヒンドスタン平原が広がる。西にインダス川、中央部をガンガー、東をブラマプトラ川の三大河川がながれ、平原の東はダージリン付近の狭い地域をとおってバングラデシュ北部をこえ、アッサムの丘陵部へとつづく。平原は東西に約2400km、南北に約280400kmの幅で広がり、全体として低平な地形をなす。


デカン高原は、インド半島の大部分を占める標高300900mの広大な台地である。西から東にむかって高度が低くなり、主要河川のほとんどは東流してベンガル湾にそそぐ。


デカン高原の西側を平均標高900mの西ガーツ山脈がはしり、アラビア海沿いに狭いが肥沃(ひよく)なマラバル海岸がある。東ガーツ山脈は平均標高460mで、ベンガル湾沿いにコロマンデル海岸がのびる。

              2          気候  
典型的なモンスーン気候帯に属する。610月は南西モンスーンによる雨季、112月は冷涼な乾季、35月は乾燥熱暑の夏となる。気温は冬季(122)には北部から南部へと高くなるが、夏季(35)には内陸部で酷暑となり49°Cにまで達する。気温の日較差は、北東部のカルカッタで1月が1327°C7月が2632°C、西部のボンベイで1月が1928°C7月が2529°C、南東部のチェンナイ(マドラス)では1月が1929°C7月が2636°Cである。

降水量は地域差が大きい。アッサム丘陵、ヒマラヤ東部、マラバル海岸などの東部は多雨だが、西にむかうほど少なくなる。インダス川の中流から下流域では極端に少なく、乾燥地帯のタール砂漠が広がる。

              3          植生と動物  
インドは植生が豊かで、気候の違いにより熱帯系あるいは温帯系植物が地域別に分布している。乾燥地帯はパキスタンに隣接する北西部の砂漠地帯とデカン高原中央部にあり、フウチョウボク、タケ、ナツメ、シュロなどがみられる。乾燥地帯でも熱帯に属する地域は、ガンガー流域のヒンドスタン平原、デカン高原の北西部と南端部に広がり、沙羅双樹をはじめとする熱帯常緑樹林が分布する。

湿潤熱帯地域のデカン高原東部や西ガーツ山脈西側は降水量のもっとも多い地域で、沙羅双樹、シタン(紫檀)、ゲッケイジュなどの熱帯常緑樹林がみられる。北西ヒマラヤの温帯高地では、ヒマラヤスギ、クロマツ、エゾマツなどの針葉樹のほかシャクナゲなどが分布する。

インドには多種類の動物が生息しており、しばしば人畜をおそうトラやヒョウは各所でみられ、デカン高原にはチーターがいる。ヒマラヤ山脈北東部やデカン高原の奥深い森には象が生息し、山岳地帯には野生のヤギやヒツジがすむ。ほかにスイギュウ、イッカクサイ、クマ、オオカミ、ジャッカル、各種のシカやサル、カモシカがみられる。爬虫(はちゅう)類ではニシキヘビや毒をもつコブラ、鳥類ではオウム、クジャク、アオサギなど固有種もふくめて豊富である。

              III       住民  
インドの人種と文化は地理的条件と他国との複雑なつながりから、その起源を特定することはできない。国内には300以上の先住諸民族がおり、総人口の約7%を占める。これら先住諸民族はインド住民の主流とは人種的、民族的、文化的にことなり、また各民族間にも大きな違いがみられる。人種の類型はコーカソイド、オーストラロイド、モンゴロイドの3種に大きく区分できるが、これらは併存および混交している。地域的には北東部、中央部、南部の3つにわけられる。

              1          北東インド  
住民の大部分がインド・アーリヤ系の言語( インドの言語)を話す。大多数はヒンドゥー教を信仰しているが、建築様式をはじめ生活面ではイスラム教の影響が大きい。先住民族の多くは焼畑農業、非先住民族は耕作農業をおこなう。ミャンマーやチベットに近い地域にすむ人々は、多様で豊かな伝統文化をまもっている。

              2          中央インド  非先住民族はインド・アーリヤ系の言語、先住民族はムンダ語を話す。先住民族はほとんどが焼畑農業をおこなうが、アンドラプラデシュ州には少数だが狩猟採集民族がいる。

              3          南インド  住民のほとんどがテルグ語、タミル語、マラヤーラム語などのドラビダ系の言語を使用している。ケララ州には、キリストの十二使徒のひとり聖トマスが伝道したというキリスト教が浸透している。先住民族の大部分は焼畑農業に従事し、ほかの地域の人々よりも素朴に生活している。少数民族マラパンタラムは今日でも半遊牧の狩猟採集生活をおくっている。

              4          人口と主要都市  
人口は984003683(1998年推計)で、中国についで世界第2位である。人口密度は311/km2。人口の73%が農村地域にすんでいる。


行政地域は25州と7つの連邦直轄地からなり、連邦制を採用している。人口規模はウッタルプラデシュ州の150695000(1994年推計)から、シッキム州の444000(1994年推計)まで大きな差がある。


最大の都市はムンバイで人口は9925891(1991)(1995年に市名をボンベイから改称)。人口100万人以上の大都市として、カルカッタ、デリー、チェンナイ(95年、マドラスを改称)、ハイデラーバード、バンガロール、アーメダバード、プネー、カーンプル、ラクナウ、ナーグプル、ジャイプルなどがある。

              5          宗教と言語  
宗教はヒンドゥー教83%、イスラム教11%、キリスト教2%、シク教2%、仏教0.7%、ジャイナ教0.5%の割合である。


憲法では公用語をヒンディー語とさだめているが、この条項はヒンディー語を使用していない州ではうけいれられていない。英語は地域間の交流の言語として、政治、教育、文化などの公式な面でつかわれている。このほか地方の主要言語が17あり、これらすべてをふくめてインドで使用されている言語は1600以上にのぼる。

              IV        教育と文化  

              1          教育  
独立以来、インド政府は教育に熱心にとりくみ、学校制度の改革をおこなってきた。しかし多様な人種、宗教、言語、社会に根づいているカースト制度、学校をでても職が得られないことなどが教育改革を困難にしている。近年、政府はこれらの改善につとめ、学校数の増加や就学率上昇の成果がみられる。成人の識字率は、1951年に17%だったが、81年に36%95年には52%になった。

学校制度は州政府の管轄下にあるため、州によってことなる。憲法は教育に関して連邦と州の協力と分担をさだめている。連邦文部省は州の学校制度を支援し、連邦直轄地には直接の指導と財政的援助をおこなう。

1980年代から小・中学校が10年、高校が2年、大学が3年となった。90年代初頭には小・中学校に約14410万人、高校には約2050万人の児童・生徒がまなんでいる。また政府は科学者、技術者の育成政策をすすめ、技術、芸術、科学系のカレッジ(学部)は約8000、ユニバーシティ(大学)も180にのぼる。大部分のカレッジはそれぞれユニバーシティの管轄下にあり、イギリス式を採用している。両方あわせての在籍者は約460万人をかぞえるが、修了者は少ない。

主要大学にボンベイ大学(1857年創立)、カルカッタ大学(1857)、マイソール大学(1916)、タゴール国際大学(1921)、デリー大学(1922)、アーグラ大学(1927)、ケララ大学(1937)、プネー大学(1949)、ビハール大学(1952)、チェンナイ大学(1957)などがある。

              2          文化  
インド文化の基盤にはヒンドゥー教があり、今日も社会全体に大きな影響をおよぼしている。国民の80%以上をヒンドゥー教徒が占め、カースト制度や食事に対する制限など生活様式の全般にわたってヒンドゥー教の伝統的慣習がきびしくまもられている。

サンスクリットはヒンドゥー教の聖典だけでなく、その他の宗教文献や文学にも使用されることが多かった( サンスクリット文学)。現代文学は今日の主要言語で表現されているが、どの言語もサンスクリットの影響が強く、各言語にはある程度の共通性がみられる。 インド文学

初期古典絵画や彫刻の大部分もヒンドゥー教の伝統にのっとっている。12世紀に中央アジアからインドへともたらされたイスラム教は、アーグラのタージ・マハルなどの建築に多大な影響をもたらした。

インド美術:インド音楽:インド舞踊

              3          図書館・美術館・博物館  図書館は国内に6万以上ある。国内で出版されたすべての書籍と雑誌はカルカッタの国立図書館など3館に収蔵されている。数百ある公立図書館の中では、デリーの図書館が充実している。

博物館は460以上あり、重要な歴史的、考古学的なコレクションを所蔵している。著名なものにチェンナイの州立博物館、国立美術館、ニューデリーの国立博物館、サールナートの考古博物館、カルカッタのインド博物館がある。中世と近代の美術のコレクションではバドーダラー、チェンナイ、ニューデリーの博物館が充実している。

              V          経済  独立後、インドは統制力の強い国家主導型の経済体制を確立した。ネルー時代は1956年に発表された社会主義的政策にもとづき、鉄道輸送、鉄鋼、石炭、軍事などの17の基幹産業を公共部門、その他の産業を民間部門が担当した。民間部門においても、一定規模の企業の設立や事業規模の拡張、立地の変更、新商品の生産は事前に中央政府の許可が必要とされていた。69年には14の大手銀行が国有化された。そのほか、雇用確保のため経営不振の民間企業を公共部門がうけいれたものもあり、90年代初頭には250の企業が州政府に接収されている。

しかし、不自由な統制経済体制や1960年代半ばの干ばつにより、インド経済は停滞を余儀なくされ、世界経済における地位は低下の一途をたどった。さらに、湾岸危機による原油の高騰や外国ではたらく人々からの送金の減少が原因で、91年前半には外貨準備高が輸入額のわずか2週間分の12億ドルにまで激減し、経済は破綻(はたん)寸前におちいった。

19916月に誕生したナラシマ・ラオ政権は、従来の統制経済体制の変更を主とした「新経済政策」をうちだし、経済の自由化を一挙に推進させた。7月にはルピーの切り下げがおこなわれ、つづいて公共部門優先策の大幅な縮小、産業認可制度の撤廃、外国の資本や技術の導入が積極的に実施される。その結果、94年度から工業部門は回復し、拡大に転じた。景気が回復するにつれて輸入がふえて貿易赤字は拡大したが、大量の外貨流入により、外貨準備高は953月には史上最高の208億ドルに達した。

1951年から継続的におこなわれてきた5カ年計画は、79年と87年の干ばつの年をのぞいて、着実に経済成長を達成してきた。経済成長率は6580年で年平均4.9%8092年は7.1%を達成、95年のGNP(国民総生産)は3270億ドル、1人当たりでは350ドルであった。

              1          農業  
GDP(国内総生産)の3分の1が農業によるもので、主要農作物は米とコムギである。そのほか、サトウキビ、茶、綿花、ジュートを多く産する。砂糖と茶の生産量は世界一をほこる。

家畜、とくに牛、スイギュウ、馬、ヤギの飼育は今後の農業経済の中心となるものである。牛は19270万頭が飼育されているが、ヒンドゥー教徒は宗教的理由から食肉としては消費しないため、もっぱら乳牛である。スイギュウのほとんどはデルタ地帯で農耕および荷役用として利用される。パンジャブやラージャスターンの乾燥地域では、荷役用にラクダが飼育されている。ヒツジとヤギは主として衣料用である。

              2          林業と漁業  森林は国土の約23%を占める。産業用としての森林はほとんど北部のアッサム地方にかぎられ、ヒマラヤ山脈が北限となる。副産物である木炭、果物、ナッツ、ゴム、樹脂の製造は産業の柱となっている。1990年代初頭の木材伐採高は27980m3にのぼった。

漁業はガンガー流域や南西部の海岸地方で活発である。政府は遠洋漁業を奨励するため、加工工場の建設や海上保険の整備に力をいれている。1990年代初頭の漁獲高は420tであった。近年、冷凍エビ、冷凍イカの輸出が急増している。

              3          鉱業  インドは地下資源にもめぐまれている。とくに鉄鉱石、石炭、ボーキサイトの埋蔵量は世界有数で、このほかマンガン、雲母、チタン、銅、石油、アスベスト、クロム、亜鉛、石灰岩、金、銀なども豊富である。石油は国内の必要量の5分の3を産出する。天然ガスは137m3である。

              4          工業とエネルギー  インドは17世紀には世界的な綿工業の中心地として知られ、今日でも綿工業が主要産業である。ついでジュート製品が多い。鉄鋼業は1950年代に大きく発展した。そのほかの工業として、機械、セメント、製粉、石油精製、製糖、製材、織物、電気製品、自動車、化学、製紙、肥料、食品加工などがおこなわれる。

電力の74%は火力発電、23%が水力発電、3%が原子力発電による。1990年代初頭には8200kWの発電能力があり、年間の発電電力量は3100kWhであった。

              5          通貨と銀行  通貨単位はルピー(1ルピー=100パイサ)。中央銀行は、1949年に国有化されたインド準備銀行である。その主要業務は通貨の発行のほか、連邦政府、州政府、商業銀行、協同組合銀行に対する融資などである。連邦および州政府の負債額は年々拡大し、インフレの原因となっている。

              6          外国貿易  1996年の輸入総額は374億ドル、輸出総額は330億ドル。

主要な貿易相手国はアメリカ合衆国、ドイツ、日本、イギリス、サウジアラビア、ベルギー=ルクセンブルク、フランス、オーストラリア、アラブ首長国連邦である。おもな輸入品は金属、機械、石油、貴石、化学薬品、輸出品は宝石(おもにダイヤモンド)、繊維品、衣類、茶、鉄鉱石、機械類である。

              7          交通とコミュニケーション  インドでは国有の鉄道が重要な交通手段である。鉄道の総延長は1990年代初頭で62500kmにおよぶが、広軌、中軌、狭軌が混在しており、貨物輸送の障害となっている。道路の総延長は210kmである。海運の発展もめざましく、おもな貿易港としてカルカッタ、ムンバイ、チェンナイ、ビジャカパトナムなどがあげられる。また国内航空路線が広い国土にはりめぐらされ、国際線はエア・インディア、インディアン・エアラインなどが中心となっている。

通信網は整備されており、1990年代初頭の電話台数は580万をかぞえる。新聞は日刊紙が3800紙以上、毎日2750万部をこえる部数が発行されている。ラジオやテレビも普及しており、どちらも国営で、連邦政府が管轄する。受信機数は、ラジオが6850万台で24の主要言語で全国に放送されており、テレビが2780万台にのぼる。

              VI        政治  
1950126日公布の憲法にもとづき統治されている。

インドは直轄区をもつ連邦と州からなるが、同じ連邦制をとるアメリカ合衆国とくらべて、州や地域の権利がきびしく制限され、より単一国家に近い。

              1          行政  1951年から52年にかけて最初の普通選挙がおこなわれ、イギリス式の議院内閣制が成立した。元首は大統領だが、実権は首相を長とする閣僚会議がにぎっている。大統領は任期5年で、連邦と州の両議会の議員による選挙でえらばれる。首相は大統領が任命する。大統領の選出や首相の任命は、インド社会の構成の複雑さを反映して、宗教や出身地に配慮しながらおこなわれる。977月、旧不可蝕民出身の大統領がはじめて誕生した。

              2          立法と司法  連邦議会は二院制で、各州議会議員によって間接的に選出される議員が主体の上院245名と、小選挙区制による直接選挙でえらばれる下院545名からなる。上院よりも下院のほうが権限は強い。上院の任期は6年、下院は5年である。

首都ニューデリーに最高裁判所、各州に高等裁判所があり、いずれも長官と判事は大統領の任命による。高等裁判所の下に州が管轄する裁判所がある。司法権は独立しており、裁判所には違憲審査権があたえられている。

              3          政党  1885年に結成されたインド国民会議派はインドを独立にみちびき、独立以降1977年まで首相を輩出した。69年に国民会議派は首相(インディラ・ガンディー)派と反首相派に分裂する。77年に反首相派などの野党4党によってジャナタ党(インド人民党の前身)が結成され、国民会議派の長期政権をくつがえした。しかし同党はまもなく内部で権力闘争をおこし、79年に分裂するにいたった。

1980年と84年の総選挙ではふたたび国民会議派が復活したが、89年の総選挙でインド人民党(1980年結成)に敗北する。人民党のシン政権もヒンドゥー寺院建設問題で9011月に崩壊。人民党を離党し社会主義人民党を結成したシェーカルが首相に就任したが、913月国民会議派の審議拒否により辞任、国民会議派のナラシマ・ラオが首相となった。965月には人民党のアタル・ビハリ・バジパイが首相に就任した。このほかの政党にインド共産党(左右2派がある)、ドラビダ進歩同盟、大衆社会党などがある。

              4          厚生  独立以来、政府は国民の健康問題にとりくんできた。1941年に32歳だった平均寿命は、90年代半ばには60歳になった。乳児死亡率は、1000人当たり151(1965)から88(1995)に減少。これは予防薬の普及や栄養および衛生状態の改善による。天然痘は絶滅し、コレラや赤痢、象皮病もあまりみられなくなった。マラリアや結核、眼病の抑制も政策としてとりあげられている。しかし今なお国民の多くが栄養不良の状態にあり、干ばつが原因の餓死もしばしばおこる。

              5          国防  兵役の義務はなく、志願制である。1997年の兵力の内訳は、陸軍98万人、海軍55000人、空軍11万人である。

              VII     歴史              1          インダス文明  
インド亜大陸の各地に旧石器および新石器文化の存在をしめす巨石文化遺跡がある。ドラビダ人は、新石器時代の前3500年ごろに西方から移住したとされる。


2300〜前1700年ごろ、インダス川上流のハラッパー、下流のモヘンジョ・ダロを中心としておこった青銅器時代の都市文明をインダス文明という。この文明をささえたのはドラビダ人と推測されるが、遺跡から発掘された印章の象形文字がまだ解読されておらず、不明な点が多い。

現在のインド民族の主流をなすアーリヤ人は、中央アジアでおもに遊牧民として生活していた。すでにインダス文明が衰退した前1500年ごろ、アーリヤ人はラージャン(部族長)にひきいられパンジャブ地方にやってきて先住民族を征服。彼らは農耕生活をとりいれながら北西インドに定住をはじめる。ドラビダ人の多くは北方や南方にのがれ、その地でドラビダ文化を発展させた。

              2          ベーダ時代  1000年ごろになると、アーリヤ人はさらに東方のガンガー上流の肥沃(ひよく)な地域へと進出し、農耕社会をきずいた。彼らは多くの都市を建設し、しだいにラージャンの権力が増大した。アーリヤ人は自然と神格化した多数神を信仰しており、司祭層を中心にバラモン教の聖典が編纂された。やがて社会はバラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王侯)、バイシャ(庶民)、シュードラ(隷属民)という4つの基本的な身分にわけられ、カースト制度の初期のかたちがととのえられた。アーリヤ人の到来からこの時期までの動きはバラモン教の聖典ベーダに詳述されており、この時代はベーダ時代とよばれる。

              3          古代国家と新思想  600年ごろには北インド各地で都市が発展し、各都市を中心に国家が成立した。コーサラ、カーシなど16の有力諸国(十六大国)のうち、マガダ国(シャイシュナーガ王朝)が台頭して北インドの東部を支配、インド史上最初の強国となった。また、このころには商業活動を中心とする貨幣経済の進展を背景に、仏教やジャイナ教などがおこってきた。これらの新しい宗教は内面的思索を重視し、祭式を万能とするバラモン教や身分制度に批判的だったため、王侯や商人に支持されて勢力を拡大していった。

4世紀前半、マガダ国にかわってマウリヤ朝が成立する。この王朝は第3代アショーカ王のとき、半島南部をのぞく全インドをはじめて統一した。彼は仏教を積極的に保護し、仏法の精神を統治の理想とした。アショーカ王の死後、マウリヤ朝は分裂し急速に衰退した。前2世紀から後2世紀ごろにヒンドゥー教の「マヌ法典」がつくられている。

マウリヤ朝が滅亡したのち、インドの北と南にあいついで強大な王国が誕生した。北西インドには後1世紀半ばにクシャーナ人が進出。クシャーナ朝の最盛期は2世紀半ばのカニシカ王のときで、ガンダーラ地方を中心に今日のトゥルケスタン、アフガニスタンから北インド大半までを領土とし、シルクロードの主要部を支配して繁栄した。この王朝のもとで大乗仏教がおこり、ギリシャ・ローマ文化との接触によってガンダーラ美術が生まれている。

南インドでは2世紀にサータバーハナ朝がデカン高原に勢力を拡大し、外国との交易を盛んにおこなった。また34世紀に二大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」が現在のかたちにまとめられた。

              4          グプタ朝と古典文化の隆盛  
4世紀にはいるとグプタ朝がおこり、インド亜大陸の再統一がすすめられる。グプタ朝は5世紀前半まで安定した繁栄をつづけ、北インドの大半を支配すると同時に、南インドの諸国にも力をおよぼした。しかし6世紀には東インドの一地方勢力となり、やがて滅亡にいたる。7世紀初頭にハルシャ・バルダーナが北インドを統一したが、その後は地方の諸王国に分裂した。

グプタ朝の時代にインド古典文化が開花し、文芸、美術の黄金時代をむかえた。詩人ではカーリダーサが活躍した。また、バラモン教と民間宗教とが融合したヒンドゥー教が発展し、文化や生活に大きな影響をおよぼすようになった。

              5          イスラム王朝  イスラム教徒のインド侵入は78世紀にもみられたが、本格的なインド征服がはじまったのは11世紀、アフガニスタンのトルコ系王朝の侵入からである。1206年、ゴール朝の将軍アイバクがデリーを中心にインドで最初のイスラム国家をつくった。その後、約3世紀にわたってデリーを都として5つのイスラム国家が興亡し、デリー・スルタン時代とよばれた。その間、ヒンドゥー教を奉じる国も出現。なかでもデカン中部におこったビジャヤナガル王国は、16世紀初めには半島南部を支配したが、1556年にイスラム5王国連合軍との戦いにやぶれ、衰退にむかった。

              6          ムガル帝国  
ティムールの血をひくカブールの小王国の首長バーブルが、1526年にデリーに侵攻し、イスラム王朝ムガル帝国の基礎をきずいた。第3代アクバルはアーグラを新都として北インド全域に勢力を広げ、集権的官僚制にもとづく統治体制を確立した。彼は税制を整備し、ヒンドゥー教徒を登用して宥和策を積極的にすすめた。ムガル帝国はその後約330年間つづき、17世紀の第6代アウラングゼーブの治下に領土は最大となる。

ムガル帝国の繁栄のもと、ヒンドゥーとイスラムの両文化が融合したインド・イスラム文化が宮廷を中心に開花した。17世紀前半にはドームとアーチをともなう白大理石の華麗なタージ・マハルが建造された。

              7          ヨーロッパ勢力の進出  1498年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰回りでインド西岸カリカットに達し、インド航路が開拓された。以来、ポルトガルは次々とインドに船団をおくり、ゴアやコーチンに拠点をもうけて東方貿易を独占した。16世紀末にポルトガルの勢力が弱まると、かわってオランダ、イギリス、フランスがアジアに進出してきた。17世紀前半にはイギリスがチェンナイ、ボンベイ、カルカッタを中心としてインド貿易に力をそそぐようになる。フランスは17世紀後半からポンディシェリやカーリカールなどを根拠地として勢力をましたが、1757年のプラッシーの戦によってイギリス東インド会社に支配権をうばわれた。

一方、ムガル帝国は、権力争いや諸侯の離反、周辺勢力の侵入、戦争出費による財政難などから衰退し、領土は縮小していった。

              8          イギリスの植民地支配  
ヨーロッパ人のインドへの進出は、当初は香辛料や綿布などの商業活動を主とするものだったが、18世紀になると武力を背景にインドの土地をうばい、住民を支配するようになる。イギリス東インド会社はプラッシーの戦でベンガル地方を手中にすると、地方の諸勢力を勢力下にくみいれ、1833年にはベンガル総督にかわってインド総督をおき、ほぼ全インドを支配した。


イギリスはインド旧来の制度を無視し、主要なポストにインド人を採用しなかった。また安価な綿布の輸入により、伝統的なインドの木綿工業は大きな打撃をうけた。このようなイギリス支配に対するインド人の反感は、185759年のセポイの反乱となってあらわれた。反乱は鎮圧され、これにくわわったムガル皇帝の帝位が廃止され、ムガル帝国は滅亡する。同時にイギリスは東インド会社を解散し、本国政府が直接インドを支配する直轄植民地体制を確立した。77年にはイギリス領インド帝国が成立し、ビクトリア女王がインド皇帝をかねることになった。

              9          独立運動の始まり  セポイの反乱をきっかけに、インドにおいて民族意識が高まっていった。1885年にボンベイで第1回インド国民会議が開かれ、インド国民会議派が結成される。1905年にはベンガル州の分割に対する反対運動がおこり、翌年には国民会議派がスワラージ(自治獲得)などのスローガンをかかげて反英運動を展開。これに対してイギリスは弾圧と巧みな懐柔策をすすめ、運動の中心であるヒンドゥー教徒の勢力をそぐためにイスラム教徒による全インド・ムスリム連盟を結成させた。11年には首都が、反英運動の拠点であるカルカッタからデリーにうつされる。

              10       ガンディーの非暴力・不服従運動  
1次世界大戦後、1919年にインドの自治権をもりこんだインド統治法が制定されたが、内容はインドの期待に反する形式的なもので、くわえて民族運動の抑圧を目的とするローラット法が発布された。このときヒンドゥー教徒とイスラム教徒の支持をえて、断食を武器とした非暴力・不服従運動を指導したのがマハトマ・ガンディーである。ガンディーの指導のもとで運動は大衆化して全インドに広がり、やがて完全自治の要求に発展した。

1935年に州の自治をみとめる新インド統治法がさだめられる。これにもとづいて37年に州議会選挙がおこなわれ、国民会議派が大勝、6つの州政府を組織した。

              11       分離独立  2次世界大戦がはじまると国民会議派は完全独立を要求、これに対してイギリスは弾圧の強化をはかった。しかしイギリスは戦争で疲弊しており、大戦後にインドから手をひく決意を表明した。こうして独立をめぐる決定はインド人自身にゆだねられたが、インド統一を主張するガンディーらの国民会議派と、イスラム国家の建設を主張するジンナーらの全インド・ムスリム連盟が対立し、一時は武力抗争にまで発展した。

1947815日、インド独立法にもとづいてインド帝国は解消され、インドは独立する。しかしインド統一はならず、ヒンドゥー教徒を主体とするインド連邦と、イスラム教徒を主体とするパキスタンとに分裂した。これは以前からイギリスがとってきたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離政策の結果であった。パキスタンはインドをはさんで領土が東西にわかれる分離国家で、宗教は同じでも民族を異にしており、それを原因とした衝突がたえず、71年に東パキスタンはバングラデシュとして独立した。

              12       独立と紛争  1947年の独立はインド、パキスタンともイギリス自治領としてのものだった。50126日、インドは新憲法を発布し議会制民主主義にもとづくインド共和国を樹立したが、イギリス連邦内にはとどまった。

独立後のインドがまず直面したのは、分割によって生じる問題と、イギリス植民地時代に保護国だった500以上の藩王国群の処理であった。独立に際して分割が予想される地域には1000万人以上の住民がおり、ヒンドゥー教徒とシク教徒がインドへ、イスラム教徒がパキスタンへと大挙して移動したため、大きな混乱と社会不安が生まれた。

インド共和国への帰属を希望した藩王国の統合は順次おこなわれ、1951年末に完了したが、ハイデラーバード、カシミールなどの藩王国の帰属をめぐり、パキスタンとの間に紛争がおきた。とくにカシミールでは藩王がヒンドゥー教徒、住民の大部分がイスラム教徒だったため、両国ともその帰属を主張してゆずらず、独立直後に第1次インド・パキスタン戦争に発展。その後もたびたび大規模な衝突がおき、未解決のまま今日にいたっている。

              13       ネルー時代  
1948年、ガンディーがヒンドゥー教徒によって暗殺される。その後インドの指導者となったのは、共和国の初代首相兼外相となった国民会議派のジャワハルラール・ネルーである。ネルーの国内政策の基調は、産業部門の開発、農地改革、民族資本の育成であった。51年から重工業化をめざす5カ年計画がはじまり、つづいて56年から社会主義型国家の建設を目標とした第25カ年計画にはいった。

ネルーは自主独立の立場から外交面では非同盟中立政策をとった。外交の基本に反植民地主義、民族自決をかかげ、これにもとづいてインドは1951年にアメリカ軍の沖縄駐留継続に反対の立場を表明、サンフランシスコ講和会議を欠席する。54年には中国の周恩来とともに、領土の主権の尊重、領土の不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存を柱とする平和五原則を発表した。また554月にインドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議で29カ国の団結の基礎をつくるなど、第三世界の中で主導的役割をはたした。

1960年代にはいると、中国との国境紛争における敗北、パキスタンとの衝突、インフレなどにより経済がゆきづまり、645月ネルーは病死した。ネルー急死後、内務大臣のシャストリが首相となったが、65年の第2次インド・パキスタン戦争を処理したのち、過労のため死去した。

              14       インディラ・ガンディー政権  1966年、ネルーの娘インディラ・ガンディーが首相に就任する。国民会議派は67年の総選挙で議席をへらしたが、ガンディーは銀行の国有化をはじめとする社会主義的路線をとることによってのりきった。71年の総選挙では貧困追放を政策としてかかげ、圧勝した。しかし、その後ガンディー政権はしだいに縁故者や側近を重用し、独裁的になっていく。73年からは食糧事情の悪化、経済の不振が深刻化し、農村では貧富の差が増大した。政府は74年に地下核実験をおこない、世界で6番目の核保有国となった。

1975年には反政府運動が高まり、政府は治安維持法によって反首相派などの指導者1万人を逮捕した。さらに、アラハバード高等裁判所から選挙違反による有罪判決が首相にくだると、ガンディーは6月に非常事態を宣言し、判決を無効にするよう憲法改正をおこない、同時に報道管制をしいて危機の乗り切りをはかった。この時期にはスラムの取り壊しや、人口抑制のための不妊手術が強行される。このため政府に対する批判が強まり、773月の総選挙で国民会議派は敗北、ガンディー自身も落選した。

              15       ジャナタ政権  1977年の選挙では野党連合のジャナタ党(のちのインド人民党)が圧勝し、国民会議派以外ではじめて政権をになうことになった。ジャナタ党政権への民衆の期待は大きかったが、政策を異にする4政党の集まりだったため、まもなく内部で権力闘争がおこり、797月に分裂した。

              16       インディラ・ガンディー政権の復活  19801月、インディラ・ガンディーが3年ぶりに政権を奪回した。しかし、各地でイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激化した。さらに83年には、パンジャブ州で自治拡大などを要求するシク教過激派や、ヒンドゥー教徒によるテロ事件があいつぐ。同年10月、政府はパンジャブ州を連邦政府直轄地にすることを宣言、州議会を停止し州政府の行政権をとりあげた。

19846月インド軍はシク教の総本山ゴールデン・テンプルへ突入し、数百人のシク教徒が死亡した。これが原因となり同年10月、ガンディーは護衛のシク教徒によって暗殺される。暗殺事件発生後、インド各地で暴動が発生し、ヒンドゥー教徒に殺されたシク教徒は1000人にのぼった。

              17       ラジーブ・ガンディー政権  
ガンディーの死後、息子のラジーブ・ガンディーが後継首相に就任した。就任前の1984123日、インド中部のボパール近郊にあるカーバイド工場でガス漏れ事故が発生、有毒ガスが付近一帯に広がった。この事故で少なくとも3300人が死亡、2万人以上が中毒にかかっている。ラジーブ・ガンディー政権は87年、タミル人過激派への全面攻撃を開始したスリランカ政府の要請にこたえて、平和維持軍を派遣した。インドの平和維持軍は軍の飛行機で領空をおかし食料などを投下したが、外国から内政干渉との非難がわきおこった。

1989年の総選挙で国民会議派が人民党を軸とする国民戦線に敗北し、ラジーブ・ガンディーは辞任する。こうして、独立後42年のうち約38年間のネルー一族3代にわたる政権に終止符がうたれた。


19908月、シン首相が被差別階層に対する雇用政策を発表すると、インド北部を中心として知識人による反対運動が広がった。さらに10月末、イスラム教のモスクを破壊してヒンドゥー寺院をたてようとするヒンドゥー教徒とイスラム教徒の衝突が激化する。このような状況の中で人民党が閣外協力を撤回したため、11月にシン政権はたおれた。

その後、社会主義人民党を結成したシェーカルが首相の座についたが、少数与党政権だったため、19913月、国民会議派の国会審議の拒否により崩壊した。

              18       ラオ政権  
19915月下旬の総選挙のさなか、ラジーブ・ガンディー元首相が爆弾テロによって暗殺され、残りの投票は6月に延期された。その結果、国民会議派のナラシマ・ラオが首相に就任した。

ラオ政権は経済の立て直しを最優先課題として、政権発足後すぐにルピーの切り下げを実施。「新経済政策」を発表して経済開放、自由化政策をうちだし、産業はようやく活性化しはじめた。このため、外国企業によるインドへの直接投資が急増した。日本企業を対象とした大規模な工業団地の建設計画が進行し、日本の民間企業の間でも関心が高まった。

パキスタンとの間のカシミール問題については、19907月からたびたび両国間で会議がもたれたが、双方の主張に進展がみられないばかりか、くりかえし衝突がおこり緊張がつづいた。931月にはヒンドゥー教の聖地アヨーディヤでの寺院建設問題で死者3000人という大規模な暴動がおこり、ラオ政権はヒンドゥー、イスラム両教徒の信頼をうしなった。

19956月、インド最大の州ウッタルプラデシュで、はじめて不可触民(指定カースト)出身の女性マヤーワティーが州首相にえらばれた( カースト制度)。インドでは独立後、公務員の採用や教育機会については、人口比率に応じて優先枠が不可触民にわりあてられている。この制度については逆差別との批判もあるが、このような留保選挙区以外の一般選挙区では不可触民の当選者がでたことはほとんどない。マヤーワティー政権はインド人民党の支持撤回により4カ月でたおれた。

19964月末から5月にかけて総選挙がおこなわれ、国民会議派は議席を半分にへらして大敗し、ラオ首相は辞任した。かわって第1党に躍進したインド人民党のアタル・ビハリ・バジパイが第11代首相に就任した。しかし人民党の議席は定数の2割強しかなく、13日後には、議会の信任をえられないことが明らかになったため辞任した。かわって6月に、議会第2党となった左派連合の統一戦線が会議派などの協力をえて内閣を組織し、ジャナタ・ダルのゴウダが首相に就任した。しかしウッタルプラデシュ州政権の樹立をめぐり、統一戦線と会議派の間で対立が先鋭化し、973月、会議派は閣外協力を解消した。ゴウダ内閣は総辞職して内閣に対する信任投票を実施したがやぶれ、政局混迷のすえ、4月、同じくジャナタ・ダルのグジュラル外相が会議派の閣外協力をとりつけて連立内閣を組閣した。しかし、7月のジャナタ・ダル党首の分党につづき、11月には、ラジブ・ガンディー元首相暗殺事件に関連して会議派が閣外協力をとりけし、グジュラル政権は7カ月で崩壊した。

              19       バジパイ政権  
19982月、下院総選挙がおこなわれ、ヒンドゥー至上主義のインド人民党が平等党など友党の支持をえてかろうじて過半数を確保し、3月、同党のバジパイ元首相を首班とする連立政権が発足した。新政権の発足にあたり、バジパイ首相は政権の統一綱領を発表した。それによると、ヒンドゥー至上主義は抑制され、経済面では「スワデシ(国産品愛用)」が強調された。また国家安全保障会議の新設や核兵器導入の選択肢を保持するなどの国防強化がうちだされ、5月には、11日と13日の2日間で5回の地下核実験が、パキスタンに近いラージャスターン州ポカラン砂漠で実施された。実験は74年の実験につづく2度目のもので、直接の引き金となったのは、パキスタンが984月におこなった中距離弾道ミサイル「ガウリ」の試射の成功であるとされた。実験後バジパイ首相は、インドが核保有国であり、その指揮・管制システムをすでに有していることを宣言した。インド、パキスタンとも核拡散防止条約(NPT)には加盟しておらず、また包括的核実験禁止条約(CTBT)にも署名していない。インドの核実験でパキスタンとの関係は一挙に緊張し、528日と30日にはパキスタンがインドに対抗して地下核実験を強行した。核実験に対しては、アメリカや日本から経済制裁をうけた。

19992月、パキスタンのシャリフ首相との首脳会談がラホールでひらかれ、偶発的な核兵器使用をふせぐためのホットライン設置、ミサイル発射実験の際の事前通告、条件付きでの核実験凍結などを内容とする「ラホール宣言」が発表された。

4月、インドは5年ぶりに中距離弾道ミサイル「アグニII」の発射実験をおこなった。パキスタンもそれに対抗して中距離・短距離弾道ミサイルの発射実験をおこない、両国間の緊張が依然としてつづいていることを示した。同月、連立政権を構成する1政党が連立を離脱したため下院での信任投票がおこなわれた。バジパイ政権は1票差で信任がえられず、バジパイは首相を辞任した。

5月中旬、パキスタンのイスラム武装勢力が、カシミールの停戦ラインをこえてインド側のカルギル地区に侵入した。インド空軍のミグ戦闘機が空爆をおこない、地上部隊もはげしい攻撃をくわえて、第3次インド・パキスタン戦争以来の大規模軍事衝突に発展した。アメリカのクリントン大統領がシャリフ首相の説得に成功し、パキスタンが武装勢力を撤退したため、7月、戦闘は終結した。

910月、下院選挙がおこなわれ、人民党は第1党となり、人民党を中心とする与党連合が議席の過半数を占め、第3次バジパイ政権が発足した。


20003月、クリントン大統領がインドを訪問し、首脳会談がおこなわれた。アメリカはインドに対する経済制裁を緩和したが、包括的核実験禁止条約(CTBT)への署名については進展が見られなかった。[1]

 

  ( 以上、「エンカルタ百科事典」より )



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