タイの概況

 

              I            プロローグ   
タイ Thailand 東南アジア中部の立憲君主国。正式国名はタイ王国。1939年まではシャムとよばれた。マレー半島の北半部を占め、インドシナ半島のほぼ中央に位置する。北と西はミャンマー(旧ビルマ)、北東はラオス、南東はカンボジア、南はマレーシアと接する。南はタイランド湾(シャム湾)とアンダマン海に面している。面積は513115km2。人口は60037366(1998年推計)。首都はバンコクで、同国最大の都市。

              II         国土と資源  
国土は南北約1770km、東西約800kmにわたる。地形は変化にとみ、南北に並走する山脈群が北部と西部にある。タイの最高峰であるインタノン山は、ミャンマーとの国境によこたわるビラウクタウン山脈(テナッセリム山脈)にあり、標高は2595mに達する。沿岸に小規模な平地があるマレー半島部に、ルアン山(1786m)がそびえる。
北部と西部の山系は中央部につきでており、東北部にはコラート高原が広がる。国土の約3分の1を占めるコラート高原は、メコン川の渓谷によってふちどられている。中央のドンパヤージェン山脈とビラウクタウン山脈の間には、タイ最大の河川チャオプラヤ川がながれ、その流域に広がる中央平野は、バンコク付近の肥沃(ひよく)なデルタとともにタイでもっとも豊かな農業地帯で、さらに人口密集地帯でもある。

              1          気候  
モンスーンの影響をうけた多雨の熱帯気候である。510月は南西モンスーンが雨をもたらし、雨季となる。114月は北東モンスーンが吹く乾季である。全般的に気温は高く、雨季は2637°C、乾季は1333°C。気温は高地をのぞいて、沿岸部より内陸部のほうが高い。
年降水量は、北部と西部、中央部で約1520mm、マレー半島部で約2540mm以上、コラート高原で約2540mm以下である。大半は610月にふる。

              2          天然資源  天然資源は豊富で、おもな鉱物資源としては、石炭、金、鉛、スズ、タングステン、マンガン、亜鉛、宝石などがある。また、チャオプラヤ川をはじめとする河川の沖積土は米など重要な作物を生みだしている。1970年代に天然ガス田が沖合で発見され、輸入石油量の減少につながった。

              3          植生と動物  沿岸部の密林や湿地帯には、マングローブ、ラタン、スオウ、コクタン(黒檀)、シタン(紫檀)などの広大な熱帯樹林がある。山地部もチーク、沈香、オークなどの経済価値のある木々におおわれている。ラン、クチナシ、ハイビスカス、バナナ、マンゴー、ココナッツなど熱帯の植物や果樹が多い。密林や森林には、荷物輸送に使役されるゾウをはじめ、サイ、トラ、ヒョウ、ガウア(インド野牛)、スイギュウ、テナガザルなどがいる。名前でわかるようにシャムネコはタイ原産である。数種の毒ヘビをふくむ50種以上のヘビがおり、ワニや魚類、鳥類も多い。

              III       住民  
人口は60037366(1998年推計)で、人口密度は117/km2である。人口はかたよって分布し、中央部にもっとも集中している。
住民の約75%はタイ族である。タイ族以外では中国人がもっとも多く、約14%を占め、ほとんどはタイ国籍を有する。そのほか少数民族として、南部にマレー語を話すイスラム教徒のマレー人、北部にカレン、ミャオ(モン)、ラフ、リス、アカなどの山地民(チャオ・カオといわれる)、東部にカンボジア人(クメール人)やベトナム人の避難民がいる。人口の約75%が地方に居住している。

              1          行政区分と主要都市  
76の県(チャンワット)およびバンコク、パタヤの2特別市にわかれている。各県はさらに郡(アンプー)、支郡(キンアンプー)、行政区(タンボン)、村(ムーバーン)、県庁所在地である自治市(テーサバーン)、郡庁所在地である衛生区(スカーピバーン)に区分される。

首都バンコクは主要な海港で、最大の都市である。バンコクの人口は5882000(1990)。そのほか主要な都市には、北部の最大都市チェンマイ(人口354000(1990))、コラート高原のナコンラチャシーマ(445000(1990))とコンケン(279000(1990))、マレー半島のソンクラー(289000(1990))とナコンシタマラートなどがある。

              2          宗教と言語  
小乗仏教(上座部仏教)がタイの主要な宗教である。タイ族の約95%が仏教徒で、全国におよそ18000のワット(仏教寺院)があり、14万人の僧侶がいる。仏教徒の男子は少なくとも数日から数カ月はワットに入って修行する。イスラム教徒は人口のほぼ4%を占め、そのほとんどはマレーシアに近い南部に居住している。ほかに、少数のキリスト教徒やヒンドゥー教徒もいる。
タイ・カガイ諸語に属するタイ語が公用語で、中部タイ方言、北タイ方言、東北タイ方言、南タイ方言の4つの地域方言がある。ラオ語、中国語、マレー語、モン・クメール系の言語も話されている。英語は中等学校以上で教授され、商業や政府機関でも使用されている。

              3          教育  タイでは、初等教育(714)が無料の義務教育となっている。約97%の児童が公立または仏教寺院が経営する初等学校に入学し、33%の児童が中等学校に進学している。政府は義務教育を9年間に拡大する意向を表明している。識字率は94%である。

1990年代初めには、60万人以上の学生が高等教育機関に在籍している。大学では、バンコクにあるチュラロンコン大学(1917年創立)やタマサート大学(1934)、北部のチェンマイ大学(1964)が有名である。バンコクにあるアジア工科大学院(AIT1959)は大学卒業者をうけいれている。90年代初め、4年制の教員養成大学にかよう学生数は約38500人。

              4          文化  
タイは他国の属国になった歴史がなく、東南アジアの中では特異な存在である。国民意識が発展した最初はスコータイ朝の時代である。スコータイ朝は、13世紀前半にいくつかのタイ族の土侯国が統一されて成立した王朝で、アユタヤ朝に併合される15世紀初めまで存続した。スコータイ朝は短命ではあったが、現代タイ文字の基礎となるスコータイ文字を創案し、テーラバーダ(上座部)仏教のタイ語仏典を編纂した。

              5          図書館と博物館  タイ最大の図書館はバンコクにある国立図書館(1905年設立)である。また、重要な専門コレクションが、バンコクにある国連のアジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)、アジア工科大学院の図書館、タイ国立文書館(1961)に収蔵されている。バンコクの国立博物館(1926)はタイ文化の歴史を展望できる大規模な工芸品のコレクションを所蔵している。

              6          文学  タイ古典文学は伝統と歴史にもとづいている。古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」のタイ版である「ラーマキエン」は、タイ美術や音楽にも影響をあたえた有名な古典である。その主題であるラーマ王子の物語は、すでにスコータイ朝時代(1315世紀)に知られており、さまざまな王のもとでタイ版がつくられたが、なかでもラタナコーシン朝のラーマ1世のもとでつくられたものが傑出している。現代の文学作品はスタイルが西洋式になってきている。

              7          美術、音楽、舞踊  
タイの有名な建築物は数々のワットである。14世紀以降の彫刻は中国、ミャンマー、インドおよびクメールの影響をうけており、それは寺院や仏像にもっともよくあらわれている。仏教絵画は保存状態はよくなく、150年以上古いものはまれにしかない。タイはうつくしい絹織物の生産でも知られる。
音楽はインドや中国、とりわけクメールの影響をうけ、複雑で、伝統演劇の伴奏や宗教儀式につかわれる。楽器は木管楽器や打楽器が中心で、ふつうは5つあるいは10の楽器による合奏形式で演奏される。演奏者は床にすわり、一般に暗譜で演奏する。舞踊も同様に複雑である。インド舞踊から派生したもので、物語を説明するゆれるような手や体の動きをともなう。

              IV        経済  
農産物、とくに米の生産と加工および輸出は伝統的にタイ経済の中核であった。タイは長い間アジア諸国の中でもっとも繁栄していたとはいえ、単一作物への依存は世界の米価変動や気候などの影響をうけやすくした。そのため政府は農業の多様化や水田の洪水調整など、科学的な耕作方法の進展をねらったいくつかの開発計画を実施することによって、経済の脆弱(ぜいじゃく)さの克服をはかり、近年、米の収穫量は降水量の少ない年でも安定したものになってきている。1980年代から90年代初めには、日本の資金協力や投資などによって急速に工業化がすすめられ、現在では、米にくわえて織物、電子製品、ゴム製品なども主要輸出品になっている。観光収入も重要な外貨獲得源である。

              1          農業  
1ha当たりの収穫量は低いが、タイは世界有数の米の生産国である。米についで経済価値の高いゴムは、おもにマレー半島のプランテーションで栽培されている。ほかの主要な農産物としては、キャッサバ、サトウキビ、トウモロコシ、パイナップル、ココナッツ、ケナフなどがある。家畜は、牛、スイギュウ、豚、ニワトリなどが飼養されている。

              2          林業と漁業  国土の約28%を森林が占める。もっとも経済価値のある森林資源は堅木である。年間木材生産量の約7%が燃料として消費される。無規制な森林伐採がおこなわれた結果、大洪水をひきおこし、1989年に伐採禁止令が制定されたが、それまでは、タイはチークの重要な輸出国であった。

漁業は経済における重要度を急速にましている。エビ、魚類、貝類の漁獲が多く、とくにエビは総輸出額の約10%を占める。

              3          鉱業  天然ガスの開発は輸入エネルギーへの依存を減少させた。1990年代初めの年間生産量は65m3で、確認埋蔵量の約3%にあたる。ダイヤモンドは主要な鉱物輸出品で、輸出額の約3.3%を占める。その他の主要鉱産物は、亜炭、亜鉛、鉛、スズ、石膏(せっこう)、鉄鉱石である。

              4          工業とエネルギー  多様化する工業部門は経済発展の中核であり、全労働人口の約15%を雇用、1980年代から90年代初めには年間9.4%の成長率をしめした。とくに食品加工業(おもに精米と製糖)、繊維織物工業、エレクトロニクス産業が盛んであるが、そのほかセメント、自動車、タバコ、化学、石油などの各工業も発達している。

1990年代初めの年間発電量は438kWhで、68年の14倍以上に達している。発電能力は1000kWで、そのほとんどは火力発電である。

              5          通貨  通貨単位はバーツで、1バーツは100サタンに相当する。1942年に設立されたタイ国立銀行(中央銀行)が全通貨を発行する。

              6          外国貿易  1996年の輸出額は約555億ドル、輸入額は約718億ドル。主要輸出品は、水産物、エレクトロニクス製品、織物、履物、ゴム。主要貿易相手国は日本、アメリカ、シンガポール、ドイツ、韓国である。

              7          交通  1893年に開業した鉄道は1951年に国有となった。現在の総延長は約4600kmである。バンコクから放射状にのびる鉄道網は、北方はチェンマイまで、南方はマレーシアとの国境まで、東方はウボンまで、北東はウドンタニをへてラオスとの国境に近いノンカイまで、西北方はミャンマーとの国境付近までつづいている。96年にはノンカイとラオスのビエンチャンをむすぶ鉄道(30km)の建設がはじまった。河口から約80kmまで遡航(そこう)できるチャオプラヤ川は重要な国内水上交通路である。道路は70年代に改修され、現在の総延長は77697km、その46%が舗装されている。

航空路は国内、国際線ともに運航されている。バンコクの北郊約20kmにあるドンムアン国際空港はタイ最大の空港である。タイ全土には20以上の空港がある。バンコク地域に第2国際空港を開設する計画があり、2000年ごろの完成が予定されている。バンコク港は近代的な港湾で、内陸国ラオスの外港の役割もはたしている。

              8          コミュニケーション  1994年のテレビの保有台数は680万台、ラジオは1100万台、電話は275万回線。英字紙と中国語紙をふくめ35紙の日刊新聞があり、280万部の総発行部数をもつ。定期刊行物はタイ語、英語、中国語で発行されている。91年に報道検閲法が廃止された。

              V          政治  
1932年の立憲革命により、タイは絶対君主国から立憲君主国に移行したが、最近までおもに軍部によって支配されていた。プーミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9)は国家統合のシンボルで直接的な支配権をもっていないが、政治に少なからぬ影響力を発揮している。新憲法は9710月に施行された。

              1          行政  国王が国家元首であり、軍を統帥する。内閣は行政府の長である首相によって主宰される。1992年の憲法改正によって、首相は下院議員でなければならなくなった。首相は王権の安定を確保し、公共秩序を維持し、円滑な経済運営を保障するために必要な処置をとることができる。さらに97年の憲法によって、首相および閣僚の議員資格の停止が規定された。

              2          立法  立法権は下院と上院による二院制の国会にあたえられている。1995年の憲法改正によって、国民の普通選挙で選出される下院の定数は従来の固定された360名から人口15万人につき1名とされ、さらに97年の憲法によって、小選挙区比例代表並立制になった。定員は500名、うち小選挙区400名、比例代表区100名。上院は97年憲法によって、従来の任命制から直接選挙制にかわり、定員は200名。任期は上院が6年、下院が4年である。

              3          司法  1995年の憲法によって、国民は裁判における適正手続きの尊重( 法の適正な手続)と平等な裁判が保障されている。三審制がとられ、最高司法機関はバンコクにある最高裁判所。高等裁判所はあらゆる事件の控訴裁判権をもつ。第一審裁判所には、民事および刑事事件のみをあつかう治安判事裁判所、裁判対象に制限のない県裁判所、バンコクおよびトンブリーの裁判をあつかう民事・刑事裁判所がある。憲法は司法の独立を保障している。

              4          地方行政  76の県(チャンワット)は、直接選挙でえらばれた知事のいるバンコク首都圏をのぞいて、内務大臣に任命された知事の管理下にある。郡(アンプー)の役人も任命制である。大きな町は選挙または任命された役人によって管理され、地方レベルでは選挙でえらばれた首長が行政権を行使する。

              5          政党  199711月に発足したチュワン政権は、9611月の下院選挙で第2党となった民主党を中心に、国民党、社会行動党、人民党、連帯党などで構成されている。最大の野党は新希望党。そのほか国家開発党、大衆党などがある。

              6          厚生  保健省は災害援助、児童福祉、疾病および貧困対策などに責任をおっている。1980年代には、ベトナム人やカンボジア人の難民を援助するために特別計画が東部において開始された。エイズの原因となるエイズ・ウイルス(HIV)の拡大は深刻な問題となっている。91年には、コンドーム使用の奨励などエイズに関する知識普及プログラムをふくむ、東南アジアでは最初の反エイズキャンペーンが開始された。医療機関はHIV感染に対する匿名の検査をおこない、946月にはボランティアによるワクチンの試用が開始された。

              7          防衛  2130歳の壮健な男子に対して2年間の兵役義務が課せられていたが、徴兵制度は199710月に廃止された。97年の総兵力は266000人で、陸軍15万人、海軍73000人、空軍43000人である。

              VI        歴史  
今日のタイ族は58世紀にはベトナム北部の黒河渓谷、ラオスの最北東部および中国の南西部にすんでいたタイ系言語を話す民族の子孫と考えられる。タイ語系の民族は713世紀にタイに広がり、13世紀末には河谷平野にムアン(小国家)を建設し、のちにタイ族の名で知られる民族として出現した。
タイ族最初の王朝は、アンコール朝が支配していたチャオプラヤ上流域に13世紀に建国されたスコータイ朝である。第3代のラーマカムヘン大王の治世が最盛期で、その勢力は北はルアンプラバン、西はペグー、東はビエンチャン、南はナコンシタマラートまでおよび、上座部仏教を受容し、現代タイ文字の基礎になったスコータイ文字を創始した。
1350年には、ラーマティボティ1(在位135169)がチャオプラヤ下流域のアユタヤを都にさだめ、新たなタイ族のアユタヤ朝を開いた。15世紀前半には北部のスコータイ朝を併合し、カンボジアのアンコール朝をほろぼし、その威勢はマラッカにまでおよんだ。16世紀中葉にはビルマのモン族の侵攻をうけて国内の統一が一時うしなわれたが、ナレースエン大王(在位15901605)が独立を回復した。その繁栄は対外貿易によるところが大きく、中国との朝貢貿易のほか、15世紀には琉球との貿易もはじまり、17世紀には日本との朱印船貿易やポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国との貿易が活発化した。

              1          ラタナコーシン朝  1767年にアユタヤ朝がビルマのコンバウン朝にほろぼされた直後、タークシンがチャオプラヤ川の河口に近いトンブリーに遷都してトンブリー朝(176782)を開いた。4度にわたるビルマ軍の侵攻を撃退し、ラオスの3王国を併合して服属させたほか、カンボジアに派兵して宗主権を回復するなど積極的な政策を実行したが、82年にタークシンは部下によって処刑され、王朝は短命におわった。

タークシンの死後、対外遠征に功績のあった将軍のチャクリがラーマ1(在位17821809)として王位についた。ラーマ1世は、トンブリーの対岸のバンコクに遷都して現在のタイの王朝ラタナコーシン朝(1782)を開き、アユタヤ朝の再興をめざして三印法典の編纂(1805)をおこなうなど、国家統治の基礎をかためた。1826年にイギリスと通商条約を締結したが、19世紀後半には、この条約によって権利と特権をえたイギリスの影響が増大した。

              2          独立の維持  しかしその後、国王の政治的手腕によってタイは近隣諸国にふりかかった植民地化の運命をまぬがれた。西洋の科学や文明に関心をいだいたモンクット王(ラーマ4世。在位185168)は、開国政策によって国家の近代化のために多数のヨーロッパ人顧問をまねいた。

彼の息子のチュラロンコン大王(ラーマ5世。在位18681910)は、父王の近代化の努力を継承して国内体制を整備し、領土の割譲という少なからぬ犠牲をはらったが、国家の独立を維持することができた。たとえば、1893年には、国境をめぐって当時コーチシナ、アンナン、トンキンおよびカンボジアを植民地としていたフランスとあらそった。フランスは軍艦をバンコクに急派してタイにカンボジアとメコン川東部のラオスを放棄させた。メコン川西部にあったタイ領も1904年と07年にフランスが獲得した。また、09年にマレー半島の4州の支配権をイギリスに割譲したが、引き換えにイギリスに治外法権の大半を放棄させた。

1次世界大戦では連合国側にくわわり、国際連盟の創立メンバーとなった。

              3          立憲革命  プラチャーティポック王(ラーマ7世。在位192535)の治世の19326月に、文官派のプリディ・パノムヨンと武官派のピブン・ソンクラームらを中核とする人民党による立憲革命がおこり、絶対君主制は終わりをつげた。ラーマ7世が眼病の治療を理由にイギリスに逃避し、353月に退位すると、甥(おい)のアーナンタマヒトン親王(ラーマ8世。在位193546)が即位した。パホン内閣の外相に就任したプリディは36年に不平等条約をすべて無効にし、翌37年に締結された新たな友好条約によって治外法権の完全撤廃に成功した。38年に発足したピブン内閣は、396月に国家主権の完全回復を記念して式典を挙行し、国名をシャムから「自由」を意味するタイに改称した。

              4          2次世界大戦  1940年以来、ピブン内閣はフランスに1893年以降に割譲した領土の返還を要求した。日本の調停で、415月にフランスとの国境紛争が解決し、タイはカンボジア西部の一部およびメコン川西岸のラオスのすべてをふくむ約54000km2の領土を回復した。以来、日本との関係は親密になっていった。12月には、日本軍が真珠湾を攻撃した数時間後、タイ政府は日本に対して国内を通過してマレー国境まで軍隊を移動する権利をみとめ、42125日にアメリカ、イギリス両国に対して宣戦布告した。ピブン親日政府が447月に総辞職すると、458月に摂政のプリディがアメリカ、イギリス両国に対する宣戦布告の無効を宣言した。

19461月にイギリスと終戦協定を締結し、イギリスの要求にしたがい、戦時中に獲得したマレー半島の領土を放棄した。アメリカとの外交関係も同月に回復され、11月には、41年に獲得した領土のうちのフランスへの返還分に関しフランスと領土協定を締結した。また、12月に55番目の加盟国になることを国際連合から承認された。その間、6月にラーマ8世が原因不明の死をとげると、弟のプーミポン(ラーマ9)が即位した。

              5          ピブン政権  194711月にピブンがクーデタによって政権を掌握した。ピブンはその後、翌年初めの短期間をのぞいて、579月まで政権を保持した。その政権は実質的に独裁政権で、アメリカやイギリスとの緊密関係の維持を外交政策の基礎とした。506月の朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)後、タイはアメリカ軍を中核とする国際連合軍に約4000人の陸軍歩兵部隊を参加させた。

国王の外国留学からの帰国をひかえた195111月、国王により権力がそがれることを警戒したピブンは、陸軍将校による無血クーデタを決行、49年憲法を廃止して独裁主義の32年憲法を復活させ、ピブン内閣を解散したうえで、ふたたびみずから首相に就任した。549月にタイは、東南アジアにおける反共の集団防衛機構SEATO(東南アジア条約機構)の創立メンバーとなり、バンコクにはその本部がおかれた。

19579月にピブン政権はサリット元帥に指導されたクーデタによって崩壊した。581月に連立政権がタノム陸軍中将を首相として成立したが、同年10月の革命団によるクーデタによってタノム政権は転覆し、サリットがふたたび政権を掌握した。憲法の廃止、戒厳令の布告、政党の活動禁止が強化された。

1960年代初め、北部では共産ゲリラが急速に勢力を伸長し、テロ攻撃を強化した。6312月にサリットが病死し、タノムがふたたび首相となった。タノム政権が直面した緊急課題は、共産ゲリラとの対決にくわえて、隣国ラオスとの関係やベトナム戦争への対応であった。

              6          タノム政権  タノム政権は、1958年から停止されていた政治的権利の回復要求にこたえて、686月に恒久憲法を公布した。692月に総選挙が実施され、タイ国民連合党が下院で75議席の多数をえて勝利した。最大野党は民主党で、56議席を獲得した。この年には、アメリカはベトナムから軍隊を漸次撤退させ、中国との友好関係をもとめることによって、東南アジアにおける役割をかえた。こうした情勢の変化がタイに、とくに中国や北ベトナムに対する、より柔軟な外交政策をとらせることになった。同時に、タイは北部やマレーシアとの国境沿いで活動する共産ゲリラに対抗しつづけた。

アメリカの東南アジアからの撤退は、アメリカに多くの基地を提供していたタイの経済を悪化させた。衰退する経済とゲリラの活動は、197111月の軍事政権の復活の原因となった。タノム首相に指導された軍事政権は憲法を廃止し、議会を解散した。7212月には新しい暫定憲法が公布された。

              7          軍事政権下の混乱  197310月の軍事政権に対する学生の一連のデモは、タノムの辞任とサンヤー文民内閣の成立をもたらした。7410月には新憲法が公布され、75年初めには自由選挙によるククリット政権が成立した。しかし政治的安定はえられず、764月の総選挙ではククリット首相の落選をまねいた。9月に亡命先のシンガポールからタノム前首相が帰国し、10月初めには、バンコクにおける学生とタノム支持者との間の銃撃流血事件(血の水曜日)をひきおこした。

政治的混乱が拡大する中で、サガット・チャローユー国防大臣の指導する軍部がクーデタで全権を掌握し、197610月に保守的なタニン政権を誕生させた。しかし、翌7710月には、この政権もサガット国防大臣が指導する革命団によって崩壊させられた。サガットは新しく発足させたクリアンサック内閣にタイ社会分裂の修復と隣接する共産政権との関係改善を命じた。7812月に新憲法が公布され、794月の総選挙では新しい下院が誕生した。

19802月、プレム・ティンラーノン将軍を首班とする内閣が発足した。プレム政権は814月のクーデタ、834月の総選挙、859月のクーデタを切りぬけた。884月にプレム首相は国会を解散し、総選挙を実施して政権の維持をはかろうとしたが、首相を民選議員から選出する要求が高まった。7月の総選挙の結果、与党連合は過半数を獲得したものの議席をへらすことになった。

              8          民主化運動と連立政権  19887月の総選挙後、第1党になった国民党のチャチャイ党首を首相とする連立政権が発足し、76年以来の軍部主導の政治に終止符がうたれた。しかし、これに不満をもつ軍部は912月にクーデタを決行してチャチャイを追放し、文民暫定政権を樹立した。親軍部の政党が923月の総選挙で勝利をおさめた後、スチンダ国軍最高司令官が首相に就任したが、5月には首相の辞任と民主的改革を要求する市民のデモがもりあがった。バンコク市民のデモは武力によって鎮圧されたが、9月の総選挙では民主主義と人権を重視する民主党が第1党になり、チュアン民主党党首を首班とする5党連立政権が成立した。

19952月、国会は91年憲法のほとんどの条項を修正する憲法改正案を可決した。おもな改正点は、有権者の年齢を20歳から18歳にひきさげ、下院の定数を固定的なものから人口に比例したものにかえ、軍部や保守派の影響の強かった上院定数を削減して下院の比重を高めたことである。同年7月の総選挙では野党の国民党が第1党となり、同党のバーンハーン党首を首班とする7党連立政権が発足した。しかし965月の通常国会で内閣不信任案が提出されると、9月に国会は解散され、11月の総選挙では新希望党が第1党となり、チャワリット党首を首班とする6党連立政権が成立した。975月、輸出不振とバブル崩壊によるバーツおよび株価の下落がほかの東南アジア諸国の通貨危機をまねいたため、7月にバーツを実質的な変動相場制に移行した。また9月に国会で可決された新憲法が10月に国王の署名をえて発効した。10月に政府は金融システム不安の解消をめざして「包括的経済再建策」を発表したが、98年度歳出の削減や物品税の引き上げなどをふくんでいたために国民の反発を買い、政府は物品税の引き上げを一部撤回した。しかし、バンコクでの首相退陣をもとめる市民集会には3万人が参加し、株価指数の大幅な下落もあって、11月にチャワリット首相が辞任し、野党第1党の民主党党首のチュアン・リークパイ元首相を首班とする、民主党、国民党、社会行動党などからなる連立政権が成立、金融不安にとりくむこととなった。
19982月にチュアン政権は成長率マイナス33.5%の経済見通しとともに、ガソリンなどの物品税やタバコなどの関税の引き上げをふくむ引き締め策を決定した。3月にIMFがチュアン政権の経済引き締め策を評価してタイに対する融資を承認するとともに、金融支援条件を緩和した。さらに4月には、タイ政府は、国際債券の発行、金融機関への外資受け入れの促進など16項目にわたる総合的な流動性経済対策を決定した。閣僚の不正融資疑惑などから、野党は再三にわたってチュアン内閣と閣僚の不信任案を提出したが、そのつど否決された。金融危機も徐々に回復基調にむかい、98年の貿易収支は黒字に転じた。991月、不良債権にくるしむ大手銀行に初の公的資金が導入された。経済成長率は、99年第1四半期にはプラスに転じた。[1]

( 以上、「エンカルタ百科事典」より)



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