フィリッピンの概況

 

I   プロローグ   
フィリピン Philippines 西太平洋にある共和国。正式国名はフィリピン共和国。フィリピン諸島からなっており、地理学上はマレー諸島の一部である。ベトナムの沿岸の東約1200kmに位置し、北はバシー海峡によって台湾からへだてられ、東はフィリピン海、南はセレベス海、西は南シナ海に面している。国土は約7100の島からなるが、そのうち面積が2.6km2以上ある島はわずか460ほどである。人口の大部分はルソン、ミンダナオ、サマール、ネグロス、パラワン、パナイ、ミンドロ、レイテ、セブ、ボホル、マスバテの、それぞれ2590km2以上の面積をもつ11の島に集中する。面積は30km2。人口は77725862(1998年推計)。マニラが首都で、最大の都市である。

          II         国土と資源  
フィリピン諸島はマレー諸島の最北端に位置し、カリマンタン島(ボルネオ島)と台湾の間を南北に約1850kmにわたってのびている。東西には約1100kmの広がりをもつ。これらの群島は火山活動によって形成されたもので、全般に山がちの地形で、セントラル山脈やサンバレス山脈など、山脈は沿岸と並行して南北にはしり、大部分は沿岸にまでおよんでいる。環太平洋火山帯( 火山帯)に属し、マヨン山、ピナトゥボ山、アポ山など約20の活火山をふくみ、地震が多い。

          1          河川  
主要な島には大きな川がながれており、そのうちのいくつかは航行が可能である。ルソン島には島内最長のカガヤン川のほか、チコ(カガヤン川の支流)、アブラ、パンパンガ、ビコルなどの河川がある。ミンダナオ川(その上流はプランギ川)とアグサン川がミンダナオ島のおもな河川である。

          2          気候  
気候は熱帯モンスーンに属し、年平均気温は約27°Cである。一般に島の内陸部や風下側は平均気温よりも高く、山地斜面や頂上、島の風上側は平均よりも低い。低地では年降水量は約2000mmである。フィリピン諸島の大部分では、511月の南西モンスーン期が雨季、124月の北東モンスーン期が乾季となる。しかしルソン島南東部、サマル島、レイテ島、ミンダナオ島東部では、北東モンスーン期にも雨がふるため乾季はない。610月には、フィリピン諸島の北半部はしばしば台風におそわれる。

          3          天然資源  
フィリピンは豊かな鉱物資源と森林資源にめぐまれている。主要な鉱産物は金、銅、鉄、クロム鉄鉱、マンガン、塩、石炭である。そのほか、銀、鉛、水銀、石灰石、石油、ニッケル、ウランも産出する

          4          植生と動物  
国土の約37%が森林でおおわれている。森林にはバンヤンノキ、多種類のヤシ、ゴムノキ、フタバガキ科のアピトンやラワンなど、東南アジア原産のかたくて強い樹木がある。またタケ、ニッケイ、チョウジ、コショウの木、豊富な種類のランが繁茂している。もっとも経済的価値の高い植物はフィリピン原産のアバカ(マニラアサ)で、その繊維は綱類や織物などに利用される。沿岸部の沼沢地にはマングローブやニッパヤシが生育する。

げっ歯類をのぞき、哺乳類の種類は少ない。おもなものとしては、カラバオとよばれるスイギュウ、シカ、野生や飼養の豚、マングース、こぶのある畜牛などがいる。爬虫類(はちゅうるい)は多数いる。鳥類は約760種類におよび、その中には色彩豊かなオウムもいる。沿岸の水域はとくに軟体動物が多く、スル諸島の周辺はスル真珠の産地となっている。

5                     土壌  

陸地の約27%が耕作に適する。土壌は、北部の島ではおもに火山性で、南部では石灰石からなり、全般的に土壌の質は低い

          III       住民  
フィリピノという言葉は、元来はフィリピンで生まれたスペイン人の血をひく者のことを意味していたが、19世紀以降は、フィリピンの住民の大部分を構成するキリスト教徒のマレー人をさすのにもちいられている。

この諸島の先住民はネグリトであった。前200年ごろからマレー人があいついでうつりすみ、現在の住民の大部分はこのマレー人の子孫である。彼らは主として言語と宗教によって分化しており、その中で人口がもっとも多いのは、諸島の中央部にすむビサヤ族とルソン島中部にすむタガログ族である。イロカノ族は3番目の多数派集団で、おもにルソンのカガヤン低地に居住している。非マレー系には、スペイン系や中国系が多い。諸島南部、とくにミンダナオ島西部やスル諸島、パラワン島南部にはイスラム教徒のモロがいる。ヨーロッパ系もしくは中国系とマレー人との混血であるメスティソは、少数派ではあるが政治的、経済的に重要な集団である。

          1          人口  

人口は77725862(1998年推計)で、人口密度は259/km2である。人口密度は主要11島で高く、80年代末には総人口の約41%が都市にすんでいた。人口増加率は年約2.7%である。

          2          主要都市  
首都マニラは、重要な港であり政治、経済、文化の中心地である。マニラ市の人口は1654761(1995)、周辺地域をふくめたマニラ首都圏の人口は800万人をこえる。そのほか、マニラ首都圏の一部で4876年に首都であったケソンシティ(人口1989419(1995))、ミンダナオ島南ダバオ州の州都で港湾都市のダバオ(1006840(1995))、港があり農業、鉱業、観光の盛んなセブ島の中心都市セブ(662299(1995))、ミンダナオ島の港湾都市サンボアンガ(511139(1995))などがある。

          3          宗教と言語  

宗教は、住民の約84%がローマ・カトリック、約4%がイスラム教、約4%がプロテスタント、約6%がフィリピン独立教会である。フィリピン独立教会はアグリパイ派ともいわれ、ローマ・カトリック教会から分離した宗派で、1902年にフィリピン人の大僧正グレゴリオ・アグリパイらにより創設された。

フィリピノ語が公用語で国語。フィリピン諸島で話される言語は多数にのぼり、100種以上もの小規模な言語グループにわかれている。いずれもアウストロネシア語族に属するが、たがいに理解できず、共通の言語(国語)の創設が必要とされてきた。1959年にはタガログ語を基礎とするピリピノ語が国語とさだめられたが、普及せず、87年憲法ではフィリピノ語が国語とされた。ピリピノ語と同様にタガログ語を基礎にしたものである。もうひとつの公用語である英語は教育に、また政治、商業面で広くつかわれている。多数の地方語のうち、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語など8言語の使用人口が多い。

4                     教育  

712歳の初等教育の6年間は無料の義務教育である。授業ではフィリピノ語、あるいは低学年では地方の言語ももちいられるが、一般的には英語によるものである。15歳以上の識字率は95%1990年代半ばの年間就学者数は、初等学校が1090万人、中等学校が480万人、大学は158万人であった。

大学には、ケソンシティにあるフィリピン大学(1908年創立)、マニラにあるアダムソン大学(1932)、東部大学(1946)、極東大学(1928)、サント・トマス大学(1611)、レガスピにあるビコル大学(1969)、ダバオにあるミンダナオ大学(1946)、バギオにあるセントルイス大学(1911)、セブにある南西大学(1946)などがある。

           5          文化  
数多くの言語や宗教的伝統をもつフィリピンでは、統一的な国民文化が発展しにくい。何世紀もの歴史の中で、文化は地方を中心として、中国やスペイン、アメリカなどからの影響をうけつつ発展してきた。

伝統的なスポーツとしては、フェンシングの一種で木の棒をつかうアルニスや、手の代わりに足をもちいるバレーボールに似たスィパ(セパタクロー)がある。闘鶏やボクシングのほか、アメリカの影響で野球やバスケットボールも幅広い人気をもっている。

フィリピン社会の注目すべき特徴は家族血縁関係の絆(きずな)の強さである。これは企業におけるネポティズム(縁者びいき)などにも反映されている。また、植民地化される以前から、親族組織の中で男系と女系に差がなく、財産の相続なども均等におこなわれることも特徴のひとつである。

          6          図書館と博物館

 おもな図書館としては、マニラでは大学図書館のほか国立図書館(1901年設立)、科学技術情報研究所の図書館(1974)などがある。パサイ市にあるロペス記念博物館(1960)には、著名なフィリピン画家の絵画や、ホセ・リサールの手紙および草稿のコレクションがある。マニラのサント・トマス大学人文科学博物館(1865)は考古学や自然史に関するコレクションを所蔵、マニラのフィリピン国立博物館(1901)には、人類学、植物学、地質学、動物学部門をはじめ芸術品のコレクションやプラネタリウムがある。

          7          文学  

スペイン人の到来以前の文学は、さまざまな方言でかたられる口承の民話や格言であった。スペイン支配時代にはカトリックの影響が強くなり、アメリカ統治時代には、アメリカ文学の影響をうけた短編小説や戯曲が生まれた。 フィリピン文学

8                     音楽と絵画  

言葉と音楽がむすびついたクンディマンはフィリピン独特のものである。伝統的民族舞踊も人気があり、儀式などさまざまな機会におこなわれる。

19世紀までの絵画や彫刻は、ローマ・カトリック教会の影響を強くうけていた。最近は世俗的なテーマをあつかったものが多く、抽象画も多い。著名な画家としては、19世紀末のロマン主義的で印象派的な作風のホアン・ルナやフェリックス・イダルゴ、20世紀初めの風俗画で知られるフェルナンド・アモルソロ、現代絵画では壁画画家のカルロス・フランシスコらがいる。

          IV        経済  
独立以前はサトウキビ、アバカ、タバコなどの輸出用商品作物にたよる農業中心の経済であったが、1945年以降、製造業の成長がみられるようになった。フィリピン憲法は、天然資源の利用と公共事業の運営は、国内企業家またはフィリピン市民が資本の60%以上をもつ組織にかぎっていたが、46年のアメリカとの「フィリピン通商法」は、この権利の適用をアメリカ市民にも拡大した。

1950年代には輸入代替型の工業化にとりくみ、ほかの東南アジア諸国に先がけて成果をおさめた。しかし土地改革の遅れなどを要因とする農村の貧困が影響して、国内市場の成長がはばまれ、60年代初めには工業は停滞におちいった。その後80年代末ごろから、輸出加工区などを中心に輸出振興型の工業化が進展し、成長軌道にのりはじめた。1人当たりの国民所得については、ラモス政権発足時の92年に、第1期の任期が終了する98年までに1000ドルをこすことが目標にかかげられたが、95年にすでに1090ドル、97年には1118ドルに達した。

          1          農業  
労働人口の約43%は農業に従事している。主要作物は、米、トウモロコシ、キャッサバ、サツマイモなどの食糧作物と、ココナッツ( ココヤシ)、サトウキビ、タバコ、アバカなどの輸出作物である。果物ではバナナ、オレンジ、マンゴー、パイナップル、パパイヤが生産される。家畜は、スイギュウ、牛、ニワトリ、ヤギ、馬、豚が多く飼育されている。

          2          林業と漁業

 森林面積は国土の約37%を占める。1990年代初めの木材の年間生産量はおよそ3865m3であった。ほかに、家具や籠(かご)などの材料としてタケやトウ(籐)が伐採される。

漁業も重要産業で、サバヒー、アジ、カタクチイワシ、マグロ、イカ、小エビ、カニなどのほか、南部諸島の沖合ではカイメンが採取されている。

3                     鉱工業とエネルギー

 鉱産物としては、金、銀、銅、鉄、マンガン、塩、石炭などが重要である。

工業は1950年代以降大きく発展した。加工食品、織物、タバコ製品などの消費財の生産が製造業の大部分を構成してきたが、近年は耐久品、とくに家具、電気電子製品、非電気機械、輸送設備などもかなりの増加をみせている。ほかに、石油、化学薬品、建築資材、衣料なども生産される。

1990年代初めの年間発電量はおよそ256kWh、電力の約22%は水力発電、19%は地熱発電、残りは石油や石炭による火力発電である。輸入額の810%を占める原油の輸入をへらすために、水力発電計画が策定されている。

4                     通貨と貿易  

通貨単位はフィリピン・ペソ。フィリピン中央銀行(1949年設立)が国庫から独立して貸し付けや貨幣供給の統制をおこなっている。

貿易収支は大幅な入超がつづいている。1996年の輸入額は約341億ドル、輸出額は204億ドルであった。主要輸入品は石油、機械、運輸設備、金属、化学製品、食料品、繊維、主要輸出品は電気部品、電子部品、ココナッツ油、衣料、粗糖、コプラ、バナナ、海産物、パイナップル缶詰、丸太、材木である。主要貿易相手国はアメリカ、日本、シンガポール、台湾、ドイツ、サウジアラビア、マレーシアである。フィリピンはASEAN(東南アジア諸国連合)の原加盟国である。

          5          交通  
道路網は整備されており、1990年代初めの総延長は16km、そのうち約15%が舗装されている。鉄道はルソン島とパナイ島にしかれているが、あまり整備されていない。全国に80余りの空港があり、主要国際空港には、マニラのニノイアキノ空港、セブ島の対岸のマクタン島にあるセブ空港がある。港湾も多く、国際的貿易港マニラのほか、セブ、イロイロ、サンボアンガは商品作物などの積み出し港となっている。国営のフィリピン航空(PAL)は、97年に史上最悪の81億ペソの赤字を記録し、989月に営業を停止、57年の歴史に幕を閉じた。翌月、国内線13路線と国際線の運行を再開したものの、依然として経営難がつづいている。

          V          政治  
19872月、国民投票によって新しい憲法が成立した。

          1          行政、立法、司法  

国家元首であり行政府の長である大統領は、直接選挙によって選出される。任期は6年で、再選はみとめられない。副大統領は、大統領と同様に任期6年だが、2期連続在職できる。

二院制の議会は、定数24(任期6年、3年ごとに半数改選)の上院と、定数最大250(任期3)の下院で構成される。

最上級裁判所は最高裁判所で、1名の首席裁判官と14名の裁判官で構成され、大統領によって任命される。下級裁判所としては高等裁判所、地方裁判所、市裁判所がある。

2                     政党  

19862月の大統領選挙には、民主国民連合(UNIDO)、新社会運動(KBL)、フィリピン民主党・国民の力(PDPLaban)が参加、UNIDOPDPLabanはアキノとサルバドール・ラウレルを候補者にたて、KBLはマルコスとアルトロ・トレンチーノを擁立した。マルコスとトレンチーノの当選の宣告が強行されたが、マルコス批判のうねりと国軍の離反で、マルコス政権は崩壊し、アキノ新政権が誕生した。875月の選挙ではアキノの対立側は民主主義のための大連合の旗のもとに選挙運動を展開したが、結果はアキノ派の圧勝におわった。92年の大統領選挙では、アキノ陣営のフィデル・ラモス派がアキノの与党「フィリピン民主の戦い」からわかれてラカスを結成し、キリスト教民主主義国民連合(NUCD)と連合して勝利した。95年の上下両院選挙では、ラモス大統領を支持するラカス・NUCDと「フィリピン民主の戦い」の与党連合「ラカス・ラバン」が圧勝した。98年の大統領選挙は、「フィリピン民主の戦い」、民族主義者国民連合、フィリピン大衆党の3党が97年に結成した「愛国的フィリピン民衆の戦い(LAMMP)」と、ラカス・NUCDを中心にたたかわれ、LAMMPのエストラダが勝利した。

          VI        歴史  

フィリピン諸島は古くから、中国やマレー諸島からさまざまな民族が移住、その中にはネグリトやモンゴロイドもふくまれている。最大のものは前3世紀以降のマレー系の移住で、彼らによってガラス製作や絞り染の技術、鉄器がつたえられた。

          1          外国文化の影響

 5世紀までに諸文化の混合から新しいフィリピン文化が形成された。中東、インド、中国からの影響が経済や社会生活に大きな変化をもたらし、鉱業、冶金業、製材業などの産業があらわれ、金や硬貨が交換の媒体として導入された。12世紀までスマトラを拠点とするスリウィジャヤ王国の影響をうけ、13世紀になるとイスラム教が諸島南部に浸透した。15世紀には中国の明朝と交流がおこなわれていた。

2                     スペインの植民支配  

15213月、ヨーロッパ人としてはじめてポルトガル人の航海者マゼラン一行が来航した。彼らはスペインの支援をうけ世界周航の最中であった。翌月マゼランは、地方の首長であるラプ・ラプにキリスト教とスペインの主権をおしつけようとしたため、セブ島の近くのマクタン島で殺された。スペインに対する反抗によって、ラプ・ラプは民族的英雄となった。42年にスペインの遠征隊が王家の後継者フェリペ2世に敬意を表して、この諸島をフィリピン諸島と名づけた。

スペインによる永続的な統治を実現するため、遠征隊司令官ミゲル・レガスピが1565年にセブ島に上陸した。レガスピはしだいに諸島に対するスペインの影響力を拡大していき、71年には統治の中心としてマニラを建設した。

          2A       キリスト教への改宗  

レガスピの遠征の成功後、アウグスティヌス会、ドミニコ会、フランシスコ会、イエズス会などのローマ・カトリック教会のさまざまな修道会が、フィリピン諸島にやってきた。宣教師の布教活動は、スペインの支配確立に重要な役目をはたした。その結果、フィリピン人は共通の宗教によってほぼ同質の集団に統合された。また聖職者たちは広大な土地を所有し、政治的にも大きな力をもつようになった。

          2B       諸外国の進出と反乱  

ほかのヨーロッパ諸国も、フィリピンに足場をきずくことをこころみはじめた。オランダもこの諸島に侵入し、スペイン船からだけでなく、中国やポルトガルや日本の貿易船からも品物をうばった。また176264年にはイギリスがマニラを占領した。一方、諸島内ではスペインとカトリックの支配に対して、ボホル島のタンブロットの反乱、パナイ島のタパルの反乱、諸島南部でのイスラム教徒の反乱など、各地で住民の反乱があいついだ。

1821年のメキシコ独立戦争によって、メキシコにおけるスペインの支配がくつがえされたため、それまで統治組織上はメキシコ副王領( 副王制)の一部として副王の統治下にあったフィリピンは、以後スペイン本国の直接統治下におかれることになった。

          3          フィリピン革命  

1892年、いくつかの秘密結社がスペイン当局に反抗して活動をはじめた。これらのうちで有名なのは、ホセ・リサールによって設立されたフィリピン同盟である。リサールは政治的には穏健派であったが、96年にスペイン当局によって処刑され、民族的英雄となった。急進派の組織カティプーナン(タガログ語で「会」の意)は、武力によって完全独立を達成することを標榜(ひょうぼう)していた。同年819日カティプーナンの存在はスペイン当局の知るところとなり、30日カティプーナンは武装蜂起し、フィリピン革命とよばれる抵抗運動が開始された。当初、アギナルドの指導のもとで革命軍は優勢をたもったが、スペインから増援軍が派遣され、97年初めには革命軍の勢力は弱められた。同年12月アギナルドとスペイン総督は革命軍の武装解除と引き換えにスペイン側が賠償金をしはらうとする和解協定に調印、この協定によってアギナルドはフィリピンから追放され、仲間とともに香港へ亡命した。

     4     アメリカの支配  1898421日にアメリカ・スペイン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、51日アメリカ海軍がマニラ湾にいたスペイン艦隊を撃破した。アメリカの助けによってアギナルドは19日にフィリピンにもどり、フィリピンの独立を宣言した。しかし12月のパリ条約によってスペインは2000万ドルで全諸島をアメリカに割譲し、1221日アメリカはフィリピンに対する軍事支配の確立を宣言した。アギナルドらはアメリカの支配を承認することを拒否し、99123日には、中部ルソンのブラカン州マロロスでフィリピン共和国(マロロス共和国)を樹立した。緊張が高まり、マニラで戦闘がはじまった。反乱軍は11月にゲリラ戦で抵抗したが、アメリカ軍によって鎮圧された。アギナルドは1901323日にとらえられ、4月にアメリカに対する忠誠をちかったが、戦乱は翌年まで散発的につづいた。

1902年、反乱の終結によってアメリカによる文民統治が開始され、のちにアメリカ大統領となるタフトが初代民政長官となった。5年後の07年、一院制のフィリピン議会が開設された。

タフトやその後継者の統治下で、フィリピン人に対する権限の付与はおさえられていた。しかし、1913年にウィルソンがアメリカ大統領に就任するとともに新しい政策が採用され、16年には、フィリピン自治法により選挙でえらばれる上院が設置され、フィリピンの最終的な独立が約束された。

          4A       統治改革と独立への道  

1933年にフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任すると、ヘア・ホーズ・カッティング法案が合衆国議会を通過した。この法案は、10年間の準備期間ののちフィリピンの独立を承認するが、アメリカの陸海軍基地はのこし、フィリピンの輸出に関税と数量割当を課すという内容のもので、フィリピンによって拒絶された。ついで34年、アメリカでタイディングス・マクダフィー法(フィリピン独立法)が成立した。それによると、アメリカは46年までにフィリピンの完全な独立を承認し、フィリピンはアメリカの監督をうけるが、国民投票によって選出されるフィリピン大統領と憲法をもつ共和制をしくこと、などが規定されていた。35514日、憲法はフィリピン人民の国民投票によって批准された。1115日にフィリピン・コモンウェルスが発足、ケソンが初代大統領となった。

          4B       日本の占領  

1941128日、日本の空軍機がフィリピンを攻撃し、日本による侵略が開始された。42年のコレヒドール島の陥落後、日本の軍政下におかれ、日本の占領と戦闘によってフィリピン諸島は広範に破壊された。諸島各地ではフクバラハップ(フク団)などの抗日ゲリラ組織が活動を強め、44年レイテ島に上陸したアメリカ軍はマッカーサーの指揮のもと日本軍とはげしい戦闘をおこない、457月にフィリピンを奪還した。9月、日本は降伏文書に調印した。

5                     共和国の樹立  

194674日、フィリピン共和国の独立が正式に宣言された。ロハスを大統領とする新しい国家は、経済復興問題にくわえて国内の抗争に直面した。中部ルソンではフクバラハップが、独自の軍隊と行政機能をそなえた反乱軍政府を組織した。フクバラハップは、農地改革と小作農の廃止を要求して、ルソンにおいて強大な勢力となった。

対米従属政策が独立後のフィリピンの政治の基調となった。1946年のフィリピン通商法で、アメリカ市民にもフィリピン人と同等の経済的権利があたえられるようになった。47年には2つの軍事協定によってアメリカは99年間にわたる軍事基地の使用権をえたが、59年には25年間に短縮された。473月国民投票によって憲法が改正され、51年にはアメリカと相互防衛条約を締結した。

政府は19519月に日本とのサンフランシスコ講和条約に署名したが、翌52年初めにフィリピンが戦時賠償として80億ドルを要求すると対話はとだえ、56年に賠償問題が解決するまで、フィリピン議会は講和条約の批准を拒否した。

6                     マグサイサイの政権  

195311月におこなわれた大統領選挙で、前国防大臣でフクバラハップ鎮圧に成功したマグサイサイが、現職のキリノを相手に決定的な勝利をおさめた。マグサイサイ大統領時代の56年に、アメリカはフィリピンにあるアメリカ軍基地に対するフィリピンの主権を承認した。また日本との講和条約と、日本の戦時賠償金として55000万ドルをさだめた日比賠償協定を批准した。

19573月マグサイサイは飛行機墜落事故で死亡し、後任に副大統領のカルロス・ガルシアが就任した。6月に共産党が非合法化され、多くの共産ゲリラが投降した。61年マカパガルが大統領に選出され、65年の選挙ではナショナリスタ党のマルコスが大統領となった。

          7          マルコス体制  
マルコス体制の初期は経済が急速に発展した。しかし1969年の再選後は、彼がベトナム戦争におけるアメリカの政策を支持したことにより、テロやゲリラ事件が頻発した。70年代初め、共産党の軍事組織である新人民軍と、南部の分離独立を主張するイスラム教徒のモロ民族解放戦線が、政府に対してゲリラ戦を開始した。72年、政情不安と犯罪の頻発を理由に戒厳令が布告された。議会は解散され、反対派の指導者は逮捕され、きびしい検閲が課された。

19731月に新しい憲法が発布された。しかしそれは、マルコスに絶対的な権力をあたえるというもので、選挙は無期限で延期された。カトリック教会もふくめ、国民の間にマルコス批判が高まった。80年、反対派は団結して戒厳令の解除を要求し、マニラではゲリラによる爆弾事件があいついだ。

マルコス大統領は1981年に戒厳令を解除し、6月に大統領選挙をおこない、さらに6年間の任期を獲得した。しかし彼の独裁に対する反対が高まり、その中で、83年に反対派の指導者ベニグノ・アキノが殺された。この暗殺は軍の陰謀として非難されたが、被告はのちに無罪を宣告されている。862月の大統領選挙は、マルコスとコラソン・アキノ夫人の対決となった。マルコスの大統領選挙勝利宣言には疑義が出され、国民の大きな反発をひきおこした。国軍の離反もあって、ついに彼はフィリピンを脱出した。

8   アキノからラモスへ

 19862月、マルコスにかわってコラソン・アキノが大統領となり、872月に新憲法を制定した。しかし、国軍内マルコス支持派による反乱の続発と、経済改革の遅れに対する国民の不満は、政権をおびやかした。

1991年におきた中部ルソンのピナトゥボ山の噴火のため、アメリカは付近のクラーク空軍基地を放棄せざるをえなくなった。上院はそのとき、残存するアメリカ軍の基地であるスービック海軍基地の貸与契約の更新を拒否し、その結果、アメリカは9211月にスービック基地も返還した。925月の大統領選挙では、アキノ大統領は前国防相のフィデル・ラモスを支持、ラモスが当選をはたした。

1990年代前半はフィリピン南部が、イスラム教徒の分離派勢力による新たなゲリラ戦の舞台となった。954月、ミンダナオ島の小さな町イピルでのゲリラによる攻撃で50人以上が死亡した。ラモス大統領はイピルに非常事態を宣言して軍を派遣、つづいておこった政府軍とゲリラとの戦いで、さらに死者はふえた。969月、政府とモロ民族解放戦線は、イスラム教徒への自治権付与にむけた暫定行政機構設立を柱とする和平合意書に調印したが、イスラム教徒、キリスト教徒双方の強硬派には依然として不満がのこっている。

19955月の上下両院選挙で、ラモス大統領の「ラカス・キリスト教民主主義国民連合」とアキノの「フィリピン民主の戦い」の与党連合は、下院204議席中155議席を獲得した。ラモス大統領は「フィリピン2000」をかかげて、20世紀末までにアジアNIES(新興工業経済地域)入りをめざし、「199398年中期開発計画」に着手した。工業化を推進力とする成長路線に不可欠である外国企業の誘致にむけて、誘致のネックとなっていた電力そのほかのインフラストラクチャーの整備をすすめ、外国による投資促進をはかるための環境整備にとりくんだ。日本からも製造業を中心に企業進出が本格化し、とくに輸出加工区への進出は日系企業が突出している。9611月にAPEC閣僚会議がマニラで、同非公式首脳会議がスービックで開催され、ピナトゥボ山噴火の被災と米軍撤退の打撃からのフィリピンの復興ぶりをアピールした。

9                     エストラダ政権

1997年に入ると、98年の大統領選挙の前哨戦が開始された。経済的安定を達成し、モロ民族解放戦線との停戦を実現したラモス大統領の実績を背景に、ラモス支持派は、大統領の再選を禁じた現行憲法の改正をもとめて署名運動を活発化させた。一方、アキノ前大統領やカトリック教会など改憲反対派は9月、数十万人規模のデモや集会を展開。同月、ラモス大統領はみずからの不出馬を表明した。不出馬表明後、与党内では候補者選びが本格化し、ラモス大統領は12月にデベネシア下院議長を候補に指名した。指名にやぶれたデビリア前国防相は、大統領選に出馬すべく、与党を脱退して民主改革党を設立した。一方、野党側は、10月に最大の野党「フィリピン民主の戦い」、民族主義者国民連合、フィリピン大衆党の3党が「愛国的フィリピン民主の戦い」を結成し、元俳優でフィリピン大衆党のエストラダ副大統領を大統領候補に決定した。985月の大統領選挙は、明確な争点のない中で、9人の候補によってあらそわれ、貧困の撲滅などをスローガンとしたエストラダの勝利となった。

19975月のタイの通貨バーツの暴落に端を発したアジアの通貨危機はフィリピンにも波及した。通貨防衛のため政府は7月、ペソの対ドル・レートの変動幅を拡大して事実上の切り下げをおこない、ペソは大きく下落した。11月、ASEANや日米など14の国と地域がマニラにあつまり、アジア金融市場安定化のため、IMF融資を中心としながら、それを補完する新たな支援体制を創設することで合意したが、経済困難は解消せず、97年まで順調に成長をつづけたフィリピン経済も、98年にはマイナス成長におちいった。

1999年になって、反政府勢力のモロ・イスラム解放戦線(MILF)が、ミンダナオ島を中心に武装闘争を激化させた。20005MILFと政府との間で和平交渉が再開され、政府側は自治権を付与する提案をおこなった。34月には、別のイスラム武装勢力アブサヤフによって児童ら30人が人質にとられる事件、マレーシアの観光地からヨーロッパ人をふくむ観光客らが誘拐されフィリピン南部のホロ島につれさられる事件が発生した。

10             アロヨ政権

そして、2001年1月に戦後生まれのアロヨ大統領が就任し、貧困対策を政権の最重要課題として掲げ、農業の近代化、農地改革、雇用創出、反政府勢力との和平交渉の推進等に取り組んだ。2004年5月の大統領選挙については、不出馬の意向を一旦表明したが、10月に改めて出馬を表明。対立候補で国民的人気俳優のフェルナンド・ポー・ジュニア候補を破り当選した。

( 以上、エンカルタ百科事典より)