ポーランドの歴史

 

9世紀半ばにポラニエ族が諸部族を統一して国家の礎をきずいたとされるが、ポーランドがヨーロッパ史に登場するのは、ピアスト朝のミエシュコ1世の治世(962?992)からである。

1        ピアスト朝

 ミエシュコ1世は966年にキリスト教を受容し、ポーランドはカトリック教国となった。その息子ボレスワフ1(在位9921025)の時代に、西はオドラ川、南から東はカルパティア山脈、ドニエストル川まで国土が広がった。  しかし、その後しばらくは内政の混乱と外国との戦争がつづく。ボレスワフ3(在位110638)の死後、国土は息子たちの間で分割され、諸侯どうしの争いがたえなくなった。124041年にはモンゴル軍がポーランドまで侵攻。一方ではドイツ騎士修道会やドイツ人がポーランド領内に入植し、多くのユダヤ人も西ヨーロッパでの迫害をのがれて流入した。

14世紀初め、ウワディスワフ1世がポーランドの再統一をすすめ、1320年に王位につく。次のカジミエシュ3(在位133370)は行政と司法の改革をおこない、クラクフ大学を創立(1364)するなど学問を振興した。また、ポモジェやシロンスクなどの領土をうしなったが、ガリチアをえて、ポーランドは大いに繁栄した。

2        ヤギエウォ朝

 1386年、ポーランド女王ヤドビガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名ヤギエウォ)が結婚して、ポーランド・リトアニア連合王国が生まれた。連合王国は1410年にドイツ騎士修道会をうちやぶり、ヨーロッパにおける自国の地位を確立した。

ヤギエウォ朝時代(13861572)はポーランドの黄金時代といわれる。カジミエシュ4(在位144792)は、ドイツ騎士修道会との十三年戦争で西プロイセンとポモジェを奪回した。一方、この間に地方のシュラフタ(小貴族)が力をつけ、マグナート(大貴族)とシュラフタの代表からなるセイム(国会)の役割が大きくなっていく。ジグムント2世アウグストは1569年にポーランドとリトアニアを正式に合同させて、「共和国(ジェチポスポリタ)」とよばれる広大な王国をつくった。

1572年にジグムント2世の死でヤギエウォ朝がたえると、セイムによる選挙王制がはじまった。国王は何をするにもセイムの承認をえなければならず、さらにセイムは全員一致が原則であった。このため、17世紀半ば以降、1人の議員の反対で法案の否決や議会の解散ができる「リベルム・ベト(自由な拒否権)」が乱用されるようにる。

3 戦争と衰退  
やがて衰退の時期がおとずれる。スウェーデン、ロシア、ウクライナのコサック、ブランデンブルク侯国、オスマン帝国などとの戦争があいつぎ、国土は縮小した。1683年に国王ヤン3世ソビエスキひきいる軍がウィーンの城門外でトルコ軍を撃退して中央ヨーロッパをトルコの脅威からすくい、大いに名声をはせたが、ポーランド国家の没落をとめることはできなかった。

18世紀初めからは、ポーランドの貴族グループとむすびついたロシア、オーストリア、フランスなど諸外国が国王選挙への干渉を強め、国内の分裂と混乱はました。そうした状況で、1764年にロシアの後押しでスタニスワフ2世アウグストが即位する。

3        ポーランド分割  

1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国は第1次ポーランド分割条約をむすび、ポーランドの国土の約4分の1を併合した。国王スタニスワフ・アウグストらの内政改革の努力にもかかわらず、93年にはロシアとプロイセンが第2次ポーランド分割をおこない、のこっていた国土の半分をうばいとった。アメリカ独立戦争にも参加した英雄コシチューシュコを司令官とする蜂起も失敗におわり、95年の第3次分割でポーランド国家は地図からきえた。以後120年以上、ポーランドは外国支配下におかれる。

ポーランドはナポレオンに望みを託し、ナポレオンは1807年にワルシャワ公国をつくったが、公国の王はザクセン侯フリードリヒ・アウグストで、ポーランド人に主権はなかった。

ナポレオン敗北後のウィーン会議(181415)により、ロシア皇帝が国王をかねるポーランド王国(別名会議王国)がつくられる。これは公国時代の4分の3の領土で、残りは3国に分割占領された。ポーランドの愛国者たちは完全独立をめざして何度も蜂起するが、いずれも鎮圧された。とくに1863年の一月蜂起の後には徹底したロシア化政策がとられ、ポーランド語の使用制限、学校教育でのポーランド語の禁止などがおこなわれた。ロシア領ほどではなかったが、プロイセン領ポーランドでもドイツ化がすすめられた。しかし、オーストリア領では政治的自由が多少ともみとめられ、独自の指導者層もそだっていった。

4        独立の回復  

1次世界大戦中の19173月、ロシア革命でロシア帝国が崩壊する。ドイツは大戦に敗北し、アメリカ合衆国のウィルソン大統領は18年の「14カ条」でポーランドの独立を支持した。こうして1811月にポーランドは独立を回復した。

1919年のベルサイユ条約でポーランドがドイツからえたのは、ポズナニと西プロイセンと、海への出口としてビスワ川にそった「ポーランド回廊」とよばれる細長い地域であった。ただし、グダニスクはこれにふくまれず、国際連盟管理下の「ダンツィヒ自由市」となった。しかし、2021年のソビエトとの戦争で東方へ領土を広げ、さらに、住民投票で上シロンスクを併合した。

新生ポーランドは議会制民主主義を採用したが、内政は混乱して内閣がしばしば交代し、経済も常に危機的状況にあった。1926年、独立の英雄ピウスツキがクーデタをおこして権力をにぎり、しだいに独裁色を強めて35年まで政界を支配した。

1930年代、ドイツではヒトラーひきいるナチスが台頭し、拡張政策をすすめた。3991日、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始する。ポーランドと同盟をむすんでいたイギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、ここに第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。

6 2次世界大戦  
ドイツ軍は数週間でポーランドの西半分を占領した。東半分は、ドイツと秘密協定をむすんでいたソ連の占領下におかれる。ポーランド政府は国外にのがれ、パリで亡命政府を樹立し、フランス陥落後はロンドンにうつった。ドイツ占領地では、ユダヤ人やポーランドの知識層にきびしい弾圧がくわえられた。ソ連占領地の住民も迫害にあい、100万人以上がシベリアや中央アジアに流刑になっている。

独ソ戦のはじまった1941年以後は、ポーランドのほとんどがドイツ占領地となる。ドイツはアウシュビッツ、マイダネクなどの強制収容所でユダヤ人の虐殺をおこなった。434月、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人が蜂起し、3週間の抵抗の末に鎮圧された。448月にはワルシャワ市民の蜂起がおきたが、ビスワ川対岸に到着していたソ連軍は援助せず、死者20万人と全市の徹底的破壊という結末におわった。戦争中のポーランド一般市民の犠牲者は500万人以上、兵員の死者は60万とされる。

7        新国家とスターリン時代  

終戦後の19456月、ロンドン亡命政府と、前年にソ連の主導によってつくられた共産党系のポーランド国民解放委員会(ルブリン委員会)が合体、挙国一致臨時政府が成立した。

ポツダム会談でさだめられた新しい国土は、戦前よりも西に移動していた。ポーランドは西部のシロンスク、グダニスクなどを獲得したが、その2倍近い広さの東部領域をうしなう。西にすんでいた約700万人のドイツ人は追放され、代わりに東からおわれたポーランド人約400万人がすみついた。

挙国一致政府は長続きせず、ヤルタ体制の中で共産主義勢力が力をのばした。ロンドン亡命政府系の政治家は迫害され、逮捕されたり亡命したりした。やがてポーランドはスターリン主義を奉じる共産党一元支配体制となり、ソ連型の経済社会システムの建設をめざすようになる。農業集団化も実施されたが、農民の強い抵抗にあい失敗におわる。教会への迫害が強まり、首座大司教ビシンスキ枢機卿も逮捕され、軟禁された。

8 「十月の春」  

スターリンの死後3年たった1956年のソ連共産党大会でフルシチョフがおこなったスターリン批判に、東ヨーロッパ諸国指導部は大きな衝撃をうけ、非スターリン主義化にむかいはじめた。566月のポズナニの労働者暴動に対して、ポーランド当局は寛大な処置でのぞむとともに、党の民主化にとりくむ。10月、かつて追放、投獄された党指導者ゴムウカが党第一書記にかえりざいた。

改革の暴走でソ連軍の介入をまねいたハンガリーとことなり、ポーランドはゴムウカの権威で介入をまぬがれ、改革の道にはいった。しかし、ゴムウカ政権もやがて硬直化と後退化へむかっていく。19683月に表現の自由をもとめるデモが弾圧され、同年ポーランド軍はワルシャワ条約機構軍の一部としてチェコスロバキアに武力介入し、「プラハの春」をおしつぶした。70年の西ドイツとの国交正常化条約は大きな外交的成功だったが、経済の非効率と停滞は深刻な状態になっていた。

9        ギエレク時代  

197012月、経済立て直しのため政府がおこなった食料品などの値上げをきっかけに、グダニスクでストライキがおきて暴動騒ぎになり、軍と警察が武力行使をしたことから大規模な流血事件に発展した。この「十二月事件」でゴムウカは失脚し、ギエレクが後任になった。ギエレクは西側からの資本導入によって経済成長をはかろうとした。しかし、無原則で非効率的な投資の導入はじきに破綻(はたん)し、債務の返済ができず経済はますます悪化した。

一方、1970年代半ばからKOR(労働者擁護委員会)をはじめとする反体制活動が少しずつ広がりはじめる。78年にはポーランド人のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が誕生し、国民にとっての大きな精神的支柱となった。

19807月、食料品などの値上げをきっかけに各地でストがはじまり、8月後半には全国ゼネストに拡大した。このときはじめて労働者は、たんなる賃上げにとどまらず、自由な労働組合の結成、言論、思想、信条の自由、政治犯の釈放などの社会的要求を政府につきつけた。政府はこの要求をうけいれて8月末にグダニスク協定が調印され、9月に共産圏初の自主管理労組「連帯」が結成される。ギエレクは失脚した。

10 1980年代―「連帯」、戒厳令、民主化  
ワレサを議長とする「連帯」は、またたく間に1000万人近い組合員を擁する勢力となった。党=政府による経済改革はすすまず、経済は悪化の一途をたどり、労働者と当局の対立は深刻化した。198112月、首相兼党第一書記のヤルゼルスキは戒厳令を布告、「連帯」の活動を停止させ、指導者を逮捕、拘禁する。しかし「連帯」は地下運動として生きつづけ、政府は国民の信用をうしなった。837月に戒厳令は解除される。

1980年代後半になると、ソ連でのゴルバチョフ書記長の登場で、東ヨーロッパ諸国における改革が可能になった。未曽有(みぞう)の経済危機に対処するため、89年ヤルゼルスキは「連帯」代表らとの円卓会議にふみきる。同年4月に「連帯」はふたたび合法化され、6月におこなわれた「条件付き自由選挙」で国民の絶大な信任をえて圧勝した。政府を共産党系でかためるのはもはや不可能であった。8月、「連帯」系の知識人マゾビエツキを首相とする連立政権が成立し、40年以上にわたった共産主義支配に終止符がうたれた。これをきっかけに、東ヨーロッパ諸国はドミノ倒しのように次々と民主化していく。

10  民主ポーランド

国民の大きな信頼を支えとして、マゾビエツキ政権は市場経済の導入による経済立て直しをめざして、「ショック療法」とよばれる大胆な改革をおこなった。この改革はある程度の成果をあげたが、急激なインフレ、大量失業、社会保障の低下などの問題が発生し、しだいに政府への不満があらわれはじめた。それでも、19951月には高インフレを抑制するために1万分の1のデノミが実施されたものの、経済は92年に上向きに転じて以降、順調に成長をつづけている。966月にはOECDへの加盟が承認された。

1990年の大統領選ではマゾビエツキをやぶってワレサが当選したが、この間、「連帯」系政治グループは四分五裂する。こうした状況の中、93年の総選挙では社会民主党(旧共産党)を中軸とする民主左翼同盟とその友党である農民党が多数派を占め、民主左翼同盟・農民党の連立内閣がつくられ、共産系政権が復活した。さらに95年の大統領選では、民主左翼同盟のクワシニェフスキがワレサをやぶって当選した。

19953月から首相の座にあった民主左翼同盟のオレクシは、旧ソ連のスパイをはたらいていたとの疑惑が浮上したため、961月に辞任した。後任となった同じ民主左翼同盟のチモシェビチは、治安機関の民主化や大幅な行政改革にとりくんだ。同年8月には「連帯」の拠点であったグダニスクのレーニン造船所が倒産し、ポーランドの民主化運動の牽引(けんいん)役となってきた「連帯」の時代はひとまず幕をおろした。しかし、979月に実施された任期満了にともなう総選挙では、「連帯」系の38団体からなる連帯選挙運動が民主左翼同盟をおさえて第1党となり、10月には「連帯」出身の知識人らでつくる第3党の自由同盟との連立により連帯選挙運動の経済顧問イェジ・ブゼックを首相とする新政権を発足させた。この結果、民主左翼同盟のクワシニェフスキ大統領との保革共存体制が成立した。

ポーランドは1989年以降、EC(ヨーロッパ共同体)( EU)、旧ソ連、バチカン、イスラエルなどと新しい外交関係をむすび、ドイツとの条約では国境線を最終的に画定させた。また、名実ともにヨーロッパの一員となることをめざし、EUへの準加盟をはたし(2002年ごろに正式加盟の予定)、NATOの「平和のためのパートナーシップ」に参加した。一方、NATOとの加盟交渉はロシアの反対で先送りされていたが、975月にNATOとロシアが協力関係をめぐって基本合意にいたり、7月のNATO首脳会議でチェコ、ハンガリーとともにポーランドの加盟が承認され、993月に正式加盟が実現した。97年にはEUとの関係も進展し、12月のEU首脳会議でチェコ、ハンガリーとともに第1陣の加盟交渉対象国にはいることがきまった。983月のEU外相理事会の場で政府間交渉が正式に開始された。

19982月、クワシニェフスキ大統領が訪日し、橋本竜太郎首相との間で両国間のビザ免除を合意した。9967月にはブゼック首相が訪日、小渕恵三首相と会談している。

なお、2004年5月に EU に加盟することが決まっており、諸般の準備が進められている。

(以上、マイクロソフト「エンカルタ百科事典)より)