ワルシャワの歴史

 

ワルシャワは15世紀初めにマゾフシェ公の居城を中心に発達した。17世紀初めには、火災の被害をうけたクラクフにかわってポーランド王国の首都となる。スウェーデン軍やロシア軍にいくどか襲撃され、1795年の第3次ポーランド分割でプロイセン領となった。1807年、ナポレオンによりワルシャワ公国がつくられるとその首都となるが、ナポレオンの没落後はロシア支配下におかれ、以後1915年のドイツ軍侵攻までロシア領にとどまった。18年、ポーランドの独立回復にともなって首都の地位にかえりざく。

1939年9月1日に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとドイツ軍の空爆をうけ、はげしい空襲と砲撃のすえ、9月27日にドイツ軍に占領される。戦時中のワルシャワは、ドイツ占領軍司令部の所在地であると同時に、ポーランド地下抵抗運動の中心でもあった。占領開始から4年間、ドイツはワルシャワ壊滅作戦を計画的にすすめた。最初に標的となったのが約50万人いたユダヤ人で、壁でかこまれた2.6km2たらずのゲットーにおしこめられた。42年7月22日から10月3日までの間に、ゲットーの住民30万人以上が強制収容所におくられている。43年4月、ゲットーは絶望的な蜂起にたちあがり、3週間にわたってドイツ軍に抵抗してたたかい、のこっていたユダヤ人約6万人のほとんどが殺された。

ソ連軍がワルシャワに近づいた1944年8月1日、市民がドイツに対して蜂起し、63日間の戦闘のすえ鎮圧された。蜂起ののちもドイツ軍は市民を殺害、追放し、建物を破壊してまわった。45年1月、ワルシャワはソ連軍とその指揮下のポーランド人部隊の手で解放される。戦後、ワルシャワは各国からの援助で再建され、歴史的な建物や地区は可能なかぎりもとどおりに復元された。戦前に100万人をこえていたワルシャワ市民のうちで、戦争を生きのびたのはわずか16万2000人。おもにビスワ川東岸のプラガ地区と西の郊外の住民であった。

戦後まもなく、共産党主体の政権がワルシャワに成立し、以後40年以上この国を支配する。1989年の民主化後は、多くの西側企業が進出している。

 

  (以上、マイクロソフト社「エンカルタ百科事典」より)