ウズベキスタンの概況

 

              I            プロローグ   
ウズベキスタン Uzbekistan 中央アジア中南部にある共和国。正式国名はウズベキスタン共和国。カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタンと国境を接する。かつてはウズベク・ソビエト社会主義共和国として、ソビエト連邦に属していたが、19918月に独立を宣言した。北西部にカラカルパクスタン自治共和国があり、国土の37%を占める。総面積は447400km2。人口は23784321(1998年推計)。首都は最大都市のタシケント。

 

              II         国土と資源  
国土の5分の4をトゥラン低地が占め、中北部には世界有数のキジルクム砂漠が広がる。ティエンシャン(天山)山脈の支脈とパミール高原が東と北東につらなり、国内の最高地点は4643mに達する。地震が多く、1966年の地震ではタシケントが壊滅的な被害をうけた。

ほとんどの河川は小さく、流れが蒸発して途中できえてしまう川もある。アラル海にそそぐアムダリヤ川の中流部、下流部とシルダリヤ川の上流部が国内をながれる。この二大河川からは灌漑(かんがい)用に大量の水がつかわれるため、近年アラル海の水位がいちじるしく低下し、一帯の生態系に深刻な影響がでている。1994年、ウズベキスタンをはじめタジキスタン、トルクメニスタン、キルギス、カザフスタンの中央アジア諸国は、そこなわれた環境を修復するための基金を設立した。


アムブハラ運河、大フェルガナ運河などの運河システムが広く整備されている。アイダル湖をはじめ大規模な人造湖や貯水池が多数つくられており、灌漑用水が流入する。

気候は大陸性の砂漠気候で、平均気温は1月が-62°C7月が2632°Cと変化がはげしい。降水量はわずかで、山沿い地方をのぞいて作物の栽培には灌漑が必要になる。

ウズベキスタンには多種多様な野生動物がすむ。砂漠にはサイガや、体長が1.6mにもなるサバクオオトカゲが生息する。高地ではユキヒョウと数種類の野生のヤギがみられる。

              III       住民  
ウズベキスタンの人口は、中央アジアの旧ソ連諸国では最大、旧ソ連全体でもロシア連邦、ウクライナについで3番目である。全人口の71%を占めるウズベク人は、チュルク語派のウズベク語( アルタイ諸語)を話し、イスラム教を信仰する。少数民族ではロシア人がもっとも多く8.3%を占めるが、近年はロシア連邦などへの移住により減少している。ロシア人についで多いのがタジク人(4.7%)、カザフ人(4.1%)で、さらにタタール人、カラカルパク人、朝鮮人、キルギス人、ウクライナ人、トルクメン人、トルコ人とつづく。


住民の大半は農村に、40%強が都市部に居住する。ほとんどのロシア人はタシケントをはじめとする工業都市にすむ。タジク人はブハラやサマルカンドなどの古都に多い。カラカルパク人はおもにカラカルパクスタン自治共和国にすんでいる。首都のタシケントは人口212万人(1991年推計)で、中央アジア最大の都市であり、旧ソ連全体でもモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフについで4番目に多い。そのほかの主要な都市はサマルカンド(371000(1991年推計))、ナマンガン(319200(1991年推計))、アンディジャン(297000(1990年推計))、ブハラ(228000(1990年推計))で、東部に集中している。

人口増加率は年3.5%と高いが、乳児死亡率や伝染病による死亡率も高く、国民の健康水準は低い。アラル海の水量の減少にともない飲料水の質と量が低下したため、西部にすむ住民の健康状態が悪化している。

              IV        経済  
経済の中心をなす農業は、GNP(国民総生産)の36%、労働人口の43%を占める。綿花に依存するモノカルチャー構造で、綿花の生産量は、旧ソ連時代にはソ連全体の約60%を占め、ソ連の綿工業の重要な原綿供給地であった。また綿実の生産で世界第4位、輸出高は世界第1位をほこる。絹とカラクール毛皮の生産量は旧ソ連諸国で第1位である。そのほか、コムギ、米、オオムギ、果実類、野菜などを産する。しかし、同国の農業は綿花栽培が大半を占めるため、自給用穀物の3分の2、食肉の3分の1、牛乳の4分の1、ジャガイモの半分を輸入に依存している。


工業はGNP42%、労働人口の21%が従事する。おもな工業生産物は農業用機械、紡績機械、織物、航空機などである。鉱物資源では天然ガス、金などが採掘される。近年、フェルガナ盆地( フェルガナ)で石油が発見され産出量も増加しているが、国内需要をみたすため、いまだに多量の石油を輸入している。

ソ連が解体し旧来の協力関係が破綻(はたん)したため、多くの旧ソ連諸国と同様、ウズベキスタンの経済も大きな打撃をこうむった。たとえば機械部品や燃料をはじめ輸入品が不足している。市場経済への移行はおくれている。国家が市場経済化を管理しており、多くの消費財に価格統制が実施され、業績のふるわない企業や農場には補助金が支給されている。土地の私有はまだすすんでいない。

199311月、政府はロシア・ルーブルの代わりに暫定的な通貨スム・クーポンを発行し、947月にはスムが正式な通貨になった。また同年、ロシアとの間に経済協力同盟条約を締結し、両国が協力して改革を推進することをとりきめた。

              V          政治  1992年制定の憲法により、ウズベキスタンは民主共和国になった。行政権は直接選挙でえらばれる大統領が行使する。任期は5年で連続2期までつとめることができるが、95年の国民投票で現大統領の任期は8年に延長された。大統領は、議会の承認をえて内閣を任命する。また、地方自治体のハキム制度をその管理下におく。ハキム制度は、政治権力の中央集権化を目的とした新しい制度である。

立法権は最高会議にあり、ウズベキスタンが独立する以前の1990年に選出された代議員で構成されていた。94年に選挙が実施され、250議席からなる一院制の最高会議が誕生した。議員の任期は5年である。人民民主党(旧共産党)と祖国党が議会の主要勢力である。登録されている唯一の野党イシュティクラル・ヨリ(「独立の道」の意)は、議会に議席をもたない。政府は、ビルリク、エルクなどイシュティクラル・ヨリ以外の野党を弾圧している。

1992年、国際連合に加盟、94年にはNATO(北大西洋条約機構)の「平和のためのパートナーシップ」協定にくわわった。

              VI        歴史  
ウズベキスタンの地には何世紀も前からウズベク人がすんでいたが、国家として統一されたのは1920年代のことである。

古代にはペルシャのソグディアナ州がおかれていたが、前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王に、8世紀にはアラブ人に征服された。13世紀にチンギス・ハーンひきいるモンゴル帝国に併合され、14世紀にはティムールの支配下にはいった。16世紀にはウズベク人のブハラ・ハーン国とヒバ・ハーン国があらわれ、18世紀にホーカンド・ハーン国が成立する。186573年にはロシアの支配がこの地域にもおよび、ヒバとブハラはロシアの属国となった。

帝政ロシアが支配する同地域での綿花栽培が拡大されるにつれて、ウズベク人をはじめ地域の諸民族とロシアとの間で数度にわたって大規模な紛争がおこった。ロシアが従来の作物にかえて綿花栽培を推進したため、住民は食糧が減産となったことにはげしく抵抗したのである。いくつかの大規模な灌漑施設の建設計画が、劣悪な労働条件と低賃金に抗議する地元の労働者の反乱のために中断されている。1916年、各地に広まっていた帝政ロシアの支配に対する反乱にウズベク人や中央アジアの諸民族がくわわり、数千人が死亡した。

ロシア革命後、ソビエト権力は、バスマチとよばれるウズベク地域の民族主義ゲリラの頑強な抵抗にあった。戦いの末、ロシアの属領ヒバとブハラは1920年、それぞれホラズム、ブハラの両人民ソビエト共和国となった。

1924年、トゥルケスタン自治ソビエト社会主義共和国とホラズム、ブハラの領土をあわせて、ウズベク・ソビエト社会主義共和国がつくられた。

ウズベク共和国内のタジク自治共和国は、1929年タジク・ソビエト社会主義共和国として分離し、カラカルパク自治共和国(現カラカルパクスタン自治共和国)は36年ウズベク領となった。第2次世界大戦後、カザフ・ソビエト社会主義共和国とウズベクの間で数回にわたって領土の移転がなされている。918月、ウズベキスタンは独立を宣言し、同年のソ連崩壊後、独立国家共同体(CIS)の結成にくわわった。


独立後のウズベキスタン第1の権力者は、大統領イスラム・カリモフである。カリモフは、ソ連の解体直後に実施された選挙で86%の得票をえて大統領に選出された。カリモフの指示により、すべての反対派勢力が弾圧された。1992年に隣国のタジキスタンではじまった内戦の影響で、反対派に対する弾圧がさらに強化される。ウズベキスタン当局は、タジキスタンからの難民の流入を制限し、タジク人がウズベキスタン国内で政治結社などを組織することを禁じ、またサマルカンドのタジク大学を閉鎖した。95年、議会の要求で実施された国民投票によって、カリモフ大統領の任期を2000年まで延長することがきまった。971月、キルギスのビシュケクにウズベキスタン、カザフスタン、キルギスの大統領があつまり、経済と軍事関係を強化する条約に調印。同条約にはタジキスタンも981月に参加した。20001月、カリモフ大統領が再選された。

 

以上、「エンカルタ百科事典」より