7日目

7月1日)

 

(クラコフ→アウシュヴィッツ→ビルケナウ→クラコフ)

 

朝食の後、ホテルを8時に出発、クラコフの西54kmのところにあるアウシュヴィッツに向かいました。

1時間ほどで、アウシュヴィッツ強制収容所跡に到着。直ちに日本人ガイドの中谷氏の案内で、見学に入りました。

 

右の写真が収容所の入り口ゲートです。まさに地獄への入り口でした。

ゲート上部には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」の文字が掲げられていますが、よく見ると、「B」の文字が上下逆(上のほうがふくらみが大きい)になっています。これは、ゲートを造らされた被収容者の小さな抵抗の跡といわれています。

ちょっと写真の角度が悪く、見づらいかもしれませんが、ご容赦ください。

 

アウシュヴィッツとはドイツ名で、ポーランド語ではオシフィエンチムといいます。第2次世界大戦時にナチス・ドイツによってつくられた強制収容所で、捕らえられ収容された民族は28にも及び、ジプシー、政治犯、反ナチス活動家、同性愛者、身体障害者のほか、ユダヤ人問題の「最終的解決」を目的とする大量虐殺施設でありました。

当時ヨーロッパにいた1000万人のユダヤ人のうち、600万人が殺されましたが、そのうち100〜150万人がアウシュヴィッツで殺されたといわれています。

 

現在は博物館となっている収容所内には28棟の囚人棟があり、一時は28000人もの囚人が同時に収容されていたそうです。

この囚人棟で何が行われたのか。残された証拠が公開されているのです。

左端写真は、銃殺に使われた死の壁です。今は静寂そのもので、なんら変哲のない場所ですが、まさにこの場所で、残虐な行為が行われていたのです。その様子を知りたい方は、ここをクリックしてください。

中央は猛毒ガスが使われたガス室、右端は死体焼却所です。煙突からは煙が絶えなかったといわれ、まさに戦慄の極みでした。

 

このほか、臨時裁判の判決を待つ囚人たちの監禁室、鞭打ち台、移動絞首台、囚人をつないだ杭、立ったまま身動きができない立ち牢などが当時のまま残され、更には、収容者から没収した衣服やトランク、靴、カバンなどの生活用品や、遺体から取り外されたメガネや義手義足に至るまで展示されており、見る者の心に暗い重しがのしかかってくるように感じました。

 

次いで、アウシュヴィッツ強制収容所から約2km離れたところにあるビルケナウへ向かいました。ここは第2アウシュヴィッツとも呼ばれ、面積が1.75ku、300棟以上のバラックが並んでいた最大の強制収容所だったところです。

「死の門」といわれた入り口のゲートをくぐって中へ入ると、見渡す限り草の茂った広大な敷地に、今なお点々と木造のバラックが建っていました。(下左端)

中央がバラックの内部です。冬は気温がマイナス20゜Cにもなり、ひとつのベッドに8人とすし詰めにされ、トイレ(右端写真)は一日わずか2回のみと制限され、とにかく不衛生だったそうです。まさに家畜同様に扱われていたわけです。

 

「アウシュヴィッツより恐ろしいことはただひとつ。この事実が忘れ去られてしまうこと」と言ったガイドの中谷さんの言葉が深く胸に突き刺さりました。

 

13時過ぎにクラコフに戻りました。

旧市街のレストランで遅い昼食をとった後、ガイドのエヴァさんの案内で旧市街の観光に入りました。

 

クラコフは、1386〜1572年のポーランド王国全盛期の首都であり、ウィーン、プラハなどとともに中央ヨーロッパ文化の中心となっていたところです。

1611年に首都がワルシャワに移った後も、国王の戴冠式、葬儀などはこの町で行われたといいますから、さしずめ日本の京都といったところでしょうか。

なお、このクラクフ歴史地区は、ポーランド内では奇跡的に第2次世界大戦などの戦禍を免れ、中世の文化をそのまま現代に伝える貴重な存在として、1978年に世界文化遺産に登録されています。

右の写真は13世紀に造られた中央市場広場で、周りには旧市街の町並みが続いています。左手の大きな建物は織物会館で、長さは100mにも及び、14世紀には生地や衣服の交易所として栄えていたとのこと。

この広場は、実際には織物会館の左側にも続いており、200m*200mという、当時はヨーロッパ最大の広場だったそうです。

左端の写真は、広場の東側にある1222年建造の聖母マリア教会です。ゴシック様式の大きな建物ですが、その昔、モンゴル軍が攻めてきたとき、この教会の塔の上からラッパを吹き鳴らしたラッパ手が敵の矢に喉を射抜かれたという悲劇の伝説がありますが、今では1時間ごとに時を告げるラッパの音が鳴り響いています。正午にその音を聞きましたが、心なしか、もの悲しげに聞こえました。

2番目の写真は教会内部の国宝に指定されている祭壇で、12年の歳月をかけて造られた木造彫刻ですが、画質が悪く申し訳ありません。拡大して雰囲気だけでも感じていただければ幸いです。

3番目は旧市庁舎です。建物は1820年に取り壊されましたが、その際にこの塔だけが残されたそうです。棟の上部には、直径が3mもある大時計と鷲の像が鎮座しています。

右端は1364年創立のヤギェウオ大学の中庭です。ポーランド最初の大学で、中欧ではプラハのカレル大学に次ぐ歴史をもち、コペルニクスやパウロ2世もここで学んだそうです。写真に見るように、アーケードの施された回廊など15世紀のゴシック様式を今に伝えています。

 

旧市街を後に、映画「シンドラーのリスト」の舞台になったユダヤ人地区(カジミェーシュ地区)へ向かいました。

第2次世界大戦前のポーランドには33万人のユダヤ人がおり、そのうちの6万人がクラコフに住んでいたそうですが、1941年3月、ナチスの総督によってここにユダヤ人ゲットーが作られると、約15000人がこのゲットーに集められたとか。その後、虐殺と収容所への移送などで、2年後にはその10%にまで減ったといいます。

現在は2000人ほどが住み、閑散として人の往来も少なく、とても静かな地区に変貌しています。

左の写真は、数あるシナゴーグ(ユダヤ教会)のひとつ、1640年を創始とするバロック様式のイザーク・シナゴーグです。

 

この日は、一旦19時にホテルに戻り、小憩後、再びバスで出発し、市内のレストランで夕食をとった後、20時40分、ホテルに帰着し、日程を終えました。

 

 

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中谷さん

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