サンクト・ペテルブルグ

 ここサンクト・ペテルブルグはフィンランド湾に流れ出るネヴァ川のデルタ地帯に発達した町で、65本の川と100以上の島がある「北のベニス」と呼ばれる水の都です。町の中心部には、美観を考慮して建てられた1819世紀のバロック、クラシック様式建築が激動の時代を超えて残されています。

 町の創始は1703年で、1712年からは首都として栄え、現在も人口約500万を擁するロシア第2の都市で、町の名前はペテログラード、レーニングラードと変わった時期がありましたが、1991年のソヴィエト崩壊により元の名前に戻ったものです。
 なお、サンクト・ペテルブルグとは「聖ペテルの町」という意味で、ロシア正教の聖人「使徒ペテロ」に由来し、この町の建設を命じたピョートル大帝によって名付けられたそうです。

 旅程2日目の2001922日、朝9時過ぎにホテルを出発、サンクト・ペテブルグ市内の観光に向かいました。
 
45人乗りの大型バスに添乗員とガイドを含めてもたった16名ですから、実にゆったりと座れ、一人2座席づつ使っても、まだ空席があるくらいでした。
 ちなみに、添乗員の
S..U君は御歳26才の好感度抜群の青年、ガイドはエレーナさんという日本語が堪能で気さくな中年の女性でした。

 左の写真は、最初に訪れたネヴァ川沿いのプーシキン広場に南北に立つ2本の円柱のひとつで、ロストラの燈台柱と呼ばれています。

 一目見て、昔の燈台であることが分かると思います。高さは32mあります。

 ロストラとは、船首の部分を意味し、敵軍の船首を切り取り、柱の飾りにして勝利を記念した古代ローマの習慣に則り、1810年に建造された由。

 柱の台座には、5mほどのシンボリックな彫刻像が据えられていますが、これはロシアの4つの川、ヴォルホフ、ネヴァ、ドニエプル、ヴォルガを表しているそうです。

 今でも、祭日には柱の上のランプに灯がともされるとか。

 

 次いで、1905年の日本海海戦に参戦し、1917年にはロシア革命開始の合図(発砲)をしたと言われ、現在は海軍中央博物館別館としてネヴァ川に浮かぶ巡洋艦オーロラ号(左下写真)、更にはネヴァ川河畔に広がる公園の中に、気品に満ち、まるで一瞬の羽ばたきのように空に向かって聳えるスモーリヌイ修道院(右下写真)と、写真ストップしつつ、次の観光場所、イサク広場に到着しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 イサク広場はペテルブルグ創立当初建設が始まった場所にあり、そこには金色の丸屋根を悠然とかかげているロシア正教の聖堂、聖イサク寺院と、ニコライ1世の馬上像などがありました。(右写真)

 大小のドーム、大理石で外装された聖イサク寺院は、1818年から40年かけて建造されたもので、周囲を見下ろすように聳え立ち、その高さは101.5bにも及ぶとか。

 内装には、聖書の場面や聖人が150以上も描かれ、60を超えるモザイク画や、聖像を飾る300以上のレリーフや像など、その豪華さには目を瞠るものがありました。

 次に、青銅の騎士像(ピョートル大帝像)の立つデカプリスト広場で写真ストップの後、血の教会に向かいました。

 

 左の写真、どこかで見覚えありませんか。

 そう、モスクワと言えば、赤の広場。モスクワに行かれた方はもちろん、まだ行かれてない方もテレビなどでよくご存じの、赤の広場の、あの有名な聖ワシリー聖堂によく似ていませんか。

 私もこれを見たとき、びっくりしました。
 赤い壁に玉葱頭を載せた可愛らしい外見、まさにそっくりでした。

 ここは正式にはキリスト復活聖堂といいますが、188131日、時の皇帝アレクサンドル2が暗殺され、その流れた血の上に建てられたので、別名血の教会と呼ばれているそうです。

 内部の様相も、旧約聖書や福音書の主題による金を効果的に使ったモザイク画で埋め尽くされ、たとえようもなく美しいものでした。


 血の教会付近のレストランにて、歌と踊りのショーを見ながら楽しい昼食をとった後、さぁ、いよいよ今回の旅行のハイライトのひとつ、エルミタージュ美術館の見学です。

 ここエルミタージュ美術館は、ロシアが世界に誇る超一流の美術館で、西洋文化をこよなく愛したエカテリーナ2世の収集品を中心にコレクションは300万点にも及び、歴代皇帝の住居であった冬の宮殿4つの建物が廊下で結ばれています。

  まずは冬の宮殿で、将軍の間ピョートル大帝の記念の間紋章の間、王座の間、女官の間などなど、帝政ロシアの財力を注ぎ込んで造らせた内装と装飾品の数々を見てまわり、ロマノフ朝皇帝の権力と絢爛たる生活ぶりを窺った後、渡り廊下を通って、美術品の観賞に向かいました。
 
 館内は、古今の西洋美術を代表するアーティスト別に部屋が分かれて展示されており、行けども行けども尽きることがなく、その膨大な展示数には圧倒されましたが、作品の質の点では、私にはパリのオルセー美術館のほうが勝っているように思いました。しかし、これは個人の好みの問題かもしれません。

 以下に、3点ほど作品をご紹介しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

上の左の写真は、ゴーギャンがタヒチで描いた有名な「果物を持つ女」(1893)で、真ん中はレンブラントの「ダナエ」(1636)です。この絵には、かつて精神異常者により硫酸をかけられ、2カ所にナイフで傷をつけられたのを見事に修復したという経緯があります。
 一番右は、ゴヤの「女優アントニア・サラテの肖像」(
1811)です。この女優は、ゴヤがこの絵を描いてくれたおかげで、後世に名を残すことになったそうです。

 旅程3日目の923日朝、ホテルを出発、冬の宮殿前の船発着場より水中翼船にてネヴァ川を西に向かい、フィンランド湾に抜けて、30分ほどでペテロドヴァレェツの夏の宮殿に到着しました。

 この夏の宮殿は、18世紀、ピョートル大帝がフィンランド湾を臨むテラス状の地形を利用して造らせたもので、当時の先進国であったフランス、オーストリア、プロイセンなどに追いつけ、追い越せムードにあったロシアは、この宮殿と庭園に多額の財を注ぎ込み、調度品はベルサイユ宮殿以上とも言われています。

 庭園の面積は1000haと広大で、噴水の数はは144個もあり、高いものは20mも水柱が上がり、水源は、ポンプは使わず、すべて丘の上から落とす自然の圧力のみだそうで、地形を巧みに利用して造成されています。


 グループ毎に時間差を設けて順番に入れているので、
20分ほど待たされ、やっと入場。靴の上からビニールのスリッパを履いての見学となりました。

 木彫りに金を貼ったまばゆいばかりの大階段に始まり、謁見の間(下左写真、紫のシャンデリアは水晶にマンガンを入れたもので、現在の技術でも造れないとか)、大広間(同右写真)、エカテリーナ2世の肖像画の間、食堂(長いテーブルにシャンデリアと色をそろえた特注のウェッジウッドの食器が並べられていた)、女性(7人)の肖像画の間ピョートル大帝の寝室(彼は身長が2m近くあったのに、ベッドがやけに短い…当時は座って眠る方が健康によいとされていたと言うから驚く)、中国風書斎などなど、その豪華さは、確かにパリ郊外のヴェルサイユ宮殿に匹敵すると思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰路は、バスにてサンクト・ペテルブルグ市内に戻り、レストランで昼食後、レーニン像、対トルコ戦勝記念の凱旋門を通り、ロシア美術館へ。

 ここロシア美術館もエルミタージュ美術館と同じく宮殿(ミハイロワ宮殿)を改装した壮麗な美術館で、ロシア1000年の歴史において創造されたこの国の画家、彫刻家、デザイナー、工芸家の作品の最大のコレクションが収められています。

 右の写真は、イヴァノフの「キリストの民衆への現れ」という作品で、この美術館の代表作品だそうです。

 イコン(宗教画)も多数展示されていましたが、
17世紀までは画家が自分の作品にサインをする習慣がなかったため、作者不明のものが多く見られました。

 

 その後一旦ホテルに戻り、1時間余くつろいだ後、市内のレストラン「パラメント」にて夕食、この日の日程を終えました。

 明日はエストニアへ向かいます。

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