10日目

7月4日)

 

(ワルシャワ→ジェラゾバボーラ→ワルシャワ)

 

いよいよ観光最終日になりました。首都ワルシャワの観光です。

ワルシャワは、言わずと知れたポーランドの首都で、ヴィスワ川を挟んで東西に広がっていますが、旧市街など観光スポットは西岸に集まっています。

2次世界大戦では20万人以上の犠牲者を出し、8割以上の市街が灰燼に帰したといわれていますが、その後の市民の不屈の努力により、旧市街の歴史的建物はほぼ完全に復元されています。なかなか美しい街並みでしょう。

右写真は町の中心地の一部、憲法広場です。

ここは1950年代初頭に造られたため、近代化した建物が並び、数多くの店やカフェ、レストランが階下部分を占めています。

なお、ワルシャワの歴史に興味のある方は、ここをクリックしてみてください。

 

朝食後、ホテルを9時ちょうどに出発、まずは聖十字架教会に行きましたが、ミサ中だったため、ショパンが柳の木の下で、そよ風からインスピレーションを得たといわれるワジェンキ公園に向かいました。

 

ワジェンキ公園は、敷地約76万ku、1766年から30年もの歳月をかけて造営された、ヨーロッパで最も美しい公園のひとつだそうです。

ワジェンキとは浴場の意味で、公園内に散在する各離宮にすばらしい浴場がたくさんあったことから、こう呼ばれるようになったとか。

池の脇に建ち、水上に浮かんでいるように見える建物は、当時のポーランド王の夏の離宮として建てられたワジェンキ宮殿で、その見え方から水上宮殿とも呼ばれているそうです。

なお、この公園には、昨夜ピアノコンサートを聴くため一度来ております。

 

次いで、ワルシャワから西へ54kmのところにあるジェラゾヴァ・ヴォラにあるショパンの生家を訪ねました。

ショパンの生家は、ポプラ並木の続くのどかな公園の中にあり、現在はショパン博物館として公開されています。

建物は意外に質素なもので、第2次世界大戦でドイツ軍の砲撃により一部破壊されましたが、1945年に元通りに再建されたそうです。

館内には、家族の肖像画や自筆の楽譜、遺品などが展示されているほか、ショパンの生まれた部屋には出生証明書や洗礼証明書が掲げられていました。

庭園にはショパン像が建ち、玄関脇には日本寄贈の桜の木もありました。世界各国からも1万本以上の木々が寄贈されていて、1万kuの敷地が緑で覆われ、静かな佇まいを見せていました。

 

さて、付近の「柳の下」というレストランにて田舎料理の昼食後、再びワルシャワにとって返し、まずはヴィラヌフ宮殿を1時間ほど見学しました。

ヴィラヌフ宮殿は、17世紀末に当時のポーランド王ヤン3世が妻のため建てた美しいバロック様式の夏の離宮です。

王の死後は、貴族や大金持ちの手に渡りましたが、第2次大戦後は迎賓館として使用され、現在は博物館になっています。

館内には、歴代の王や貴族の肖像画のほか、フレスコ画の部屋、食堂、寝室、ド・ゴールが1967年に泊まった部屋、コンサートホールなどがさまざまなコレクションとともに展示されていて、ただただその壮麗さと豪華さには瞠目し、また館外にはきれいなフランス様式の庭園が広がっていました。

 

次いで、午前中はミサ中のため入れなかった聖十字架教会に再び訪れました。

この教会は、ショパンにゆかりの深く、本堂の左手前にある石柱の下には、ショパンの心臓が埋められています。

2次世界大戦中、ドイツ軍は他の建物と同様この教会もダイナマイトで爆破したとか。その際にはほぼ3分の1が破壊され、ショパンの心臓も持ち出されてしまいましたが、戦後再建され、心臓も1945年の10月17日、ショパンの命日に元の場所に戻されたそうです。

教会内部は、金銀がふんだんに使われており、いかにも荘厳な雰囲気が漂っていました。

ここには、地元の人のみならず、ショパンの心臓への参拝者が絶えないとか。ショパンへの崇拝の念の深さを示すものといえましょう。

 

このツアーの観光もいよいよ終盤に入り、世界遺産のワルシャワ旧市街に向かいました。

 

左写真は、旧市街の南玄関、王宮広場です。

ご覧のように戦禍の傷跡をまったく感じさせないほど見事に復元されています。

右手の茶色い建物が旧王宮で、かつてはヨーロッパで最も美しい宮殿のひとつに数えられたとか。(1988年復元完了) 王の住居だったほか、国会や大統領執務室として、また士官学校や国立劇場が置かれるなど、文化、政治、経済の中心的役割を担ってきた由。

左手の高い石柱の上に建っているのは、1596年に首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の像で、こちらは戦後いち早く1949年に復元されたそうです。

 

左端写真は、旧市街の中心、旧市街市場広場です。17世紀から18世紀にかけてのゴシック様式やバロック様式の建物が並んでいますが、これらもすべて第2次大戦後に復元されたものです。作業に当たっては、過去の資料はもちろん、生き残った住民の記憶まで引っ張り出し、レンガひとつ狂わせず、壁の割れ目ひとつに至るまで再現したといいますから、復興にかけたワルシャワ市民の情熱のほどが窺えます。どうぞ拡大してじっくりとご覧ください。

中央の写真は、この広場に建つ人魚像です。この人魚像には次のような伝説があります。

その昔、未開のヴィスワ川沿いに貧しい漁師が住んでいた。ある朝、彼は網にかかった人魚を家につれて帰ったが、何とか川に返してほしいと懇願されたので、不憫に思い、望みをかなえてやった。それ以後、周りにだんだんと人が住み着くようになり、魚がよく売れ、漁師は裕福になった。

その漁師夫婦の名が、ワルス(Wars)とサワ(Zawa)で、これがワルシャワの名の由来だそうです。

右端の写真は、旧市街の北にある15〜16世紀のバルバカンというバロック様式の砦と城壁で、やはり第2次世界大戦で破壊されましたが、1954年に旧市街の建物と同様に復元されたということです。

 

この後、旧市街の北のはずれにあるキューリー夫人の生家を外観観光し、一旦ホテルに戻って小憩後、再びホテルを出て、街なかで最後の晩餐を楽しみ、これにて本ツアーの全観光日程を終了しました。

明日は日本に向け、早朝の出発です。

 

 

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