4日目(午前)

(7/5)

 

ブハラ

 

朝食後、905分、ツアーバスにてブハラの観光に出発。

ここブハラは、海抜230mにあるブハラ州の州都で、人口約22万、中央アジアではサマルカンドと並ぶ文化遺産の宝庫とか。市民の大半はタジク人で、旧市街の主要な建物の配置は9世紀以来殆ど変化していないため、シルクロードの面影が残る歴史地区として、世界遺産に登録されている由。

 

まず初めにイスマイル・サマニ廟へと向かう。

915分、バスを降りたところからイスマイル公園内を5分ほど歩き、目的地へ。

イスマイル・サマニとは、サーマーン朝の2代目の君主であるが、この廟は彼が父親のために建てたもので、10世紀の建造で、中央アジアに現存するイスラム建築では最古のものといわれる。

長い間土に埋まっていたため、モンゴル来襲による破壊から免れ、そのため20世紀に入ってから完全な形で発見された由。

廟は直方体の本体とそれを覆うドームから成り、四隅の副ドームや、側面の4つのアーチはササン朝におけるゾロアスター教の神殿建築の特徴だそうである。

廟の中には祈祷師の婦人がいて、祈りの声を聞かせてくれた。

この廟の周りを逆時計回りに3周すると願いが叶うといわれ、早速実施した。えっ? 何を願ったのかって? それは「死ぬときは苦しまず安らかに行けますように」ということ。

 

次のチャシュマ・アイユーブ廟は、同じくイスマイル公園内にあるので、歩いていく。

チャシュマは泉で、アイユーブは旧約聖書でヨブに相当する人物とか。人々が水不足に悩まされていたとき、ヨブが杖で叩いたら聖なる水が地下から湧き出したという話である。したがってここに祀られているのは人ではなく、泉そのものとか。もっともここはイスラム以前からの聖地だったとの説もあるらしい。

建物は何となく奇妙な形をしているが、これは円錐形の屋根をした霊廟が12世紀に築かれた後、まったく異なる形の建物がそれぞれ14世紀と16世紀に増築されたためといわれる。

霊廟内には今も泉が残っていて、飲むことができるといわれたが、さすがに誰もトライしなかった。

 

再びバスに乗り、次いでボロハウズ寺院へ。

この寺院は1712年建造の木造のモスクで、正面を飾る高さ12mの胡桃の柱20本がハウズ()に写って40本に見えるらしい。残念ながら修理中で、見栄えは悪かったが、カラフルで美しい天井の装飾は見ることができた。

背の低いミナレットは、今にも崩れ落ちそうということで、板で補強してあり、樽のようになっていたので、最初はこれがミナレットとは気づかなかった。

 

次いで、1045分、アルクというところへ行く。

ここは5世紀から20世紀初めまで、ブハラの時の支配者が住んだといわれる城塞(内城)。ただし、1920年のブハラ革命の際、赤軍との戦いで70%近くが焼失してしまったとのこと。

現在は、修復され、17世紀建造の金曜のモスクが古写本博物館に、元大臣の住居が大祖国戦争博物館になるなど、すっかり変貌してしまっていて、わずかに王座の間や謁見の間などの中庭にかつての名残りが見られる程度であった。

下写真は、左がアルクの入口の外観、中央は、金曜のモスク、右端が王座の間の中庭である。

この王座の間では、王に背中を向けることは不敬とされていたため、廷臣たちは入口近くに設けられた壁のところまで後ずさりし退出したという。写真奥に置かれている横長の壁がそれである。

もう、この頃は灼熱の太陽が真上に昇り、その暑いこと! 聞けば、46度もあるという。これまで経験したことのない気温である。身体はだるく、足は重く、観光はどうでも、やたら腰掛けたくなる状態であった。

 

午前中最後の観光スポットは、いずれも隣り合わせにあるカラーン・ミナレット、カラーン・モスクにミル・アラブ・メドレセ。

バスが側まで行けないので、手前で降り、5分ほど暑い中を歩いていく。

 

カラーン・モスクは、タジク語で大モスクという名の通り、その広さは1ヘクタールもあり、約1万人の信者を収容できる金曜モスクで、ここは795年アラブ人により最初のモスクが建てられて以来、常に金曜モスクが置かれてきた場所だという。チンギスハーンのブハラ征服の際、宮殿と誤認して徹底的に破壊されたのもここだったとのこと。

現在のものはシャイバーニー朝支配下の1514年に建立され、1970年に改修が加えられたものである由。

 

次いで、広場を横切って、ミル・アラブ・メドレセへ。

ここは、ナクシュバンディーという教団のシェイフ(指導者)に深く帰依していた君主が建立したもので、16世紀の建築とか。

ソ連成立後、ブハラにある宗教関係の施設はすべて閉鎖されたが、後にここだけは再開を認められ、数こそ少ないながらも、ソ連時代を通じて宗教指導者を養成していた由。なお、現在もメドレセとしての活動を続けており、我々が行ったときも学生が勉強している姿が見られた。

 

一方、カラーン・ミナレツトは、12世紀建造のブハラのシンボルといわれ、地上部分の高さ47m、土台部分は約10mとか。かつては、時刻になると、4人の呼びかけ人が一斉にアザーン(礼拝の合図)を朗誦、それに合わせて他のモスクの呼びかけ人も唱和し、信者たちは礼拝に向かったという。

この塔は、19世紀半ばまで、しばしば上から罪人を投げ落とすという公開処刑が行われたことから、死の塔と呼ばれているという。

幸いにも、このミナレットはチンギスハーンのブハラ征服時に破壊を免れ、1920年の革命で赤軍が市内に突入したときにも、銃弾をわずかに受けるにとどまった由。

希望者は上まで登って下さい、といわれたが、この酷暑では到底その元気はなく、今回ももちろんパスした次第。

 

これでようやく午前の観光を終え、昼食場所へ向かう。

 

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