2日目

(4/6)

 

マニラ → レイテ島

 

まだ夜中の330分、モーニング・コールで起こされる。

眠い! それもその筈、寝たのはたった2時間である。これなら夜行便のほうがまだましだったかもしれない。

手早く身支度をした後、集合時間の4時半までには若干の時間があり、朝食はレイテ島に着いてからになるので、そのつなぎに、機内食でキープしてあったパンをかじっていたら、電話が鳴り、女性の声で、もう皆さんお集まりです、と言われる。

てっきり添乗員のYさんから、と思い込み、あわててロビーへ降りたら、あにはからんや、まだ半数ぐらいしか集まっていない。Yさんは電話した覚えはないという。

狐につままれた思いであったが、これは、日本語に堪能なフロントの女性が、気を利かして(?)数人に電話をかけたことと判明。ほかにも、この小さな被害(?)にあった人がいたようだ。

 

皆が揃ったところで、4時36分、空港へ出発。この時間でも結構車は走っている。

昨夜から我々に同行してくれているスルーガイドのSさんは、日本人男性であるが、フィリッピン在住28年に及ぶとかで、すっかり同国人になりきった感じである。

Sさんによると、マニラでは交通混雑緩和のため、平日は交通規制をしているとのこと。末尾の番号が1〜2の場合は月曜日、3〜4の場合は火曜日と言う具合に、当該番号の車の市内への乗り入れを禁止しているが、結構うまく機能しているらしい。

 

4時51分、空港着。驚いたことに、早朝だと言うのに、国内線ターミナルは人で一杯だった。

搭乗する飛行機は、セブ・パシフィック5J-651便のDC9型で、115人乗りの小さな飛行機である。

搭乗時間はわずか1時間であったが、この間、ジュースとチョコレート菓子のサーブ、土産物の販売、更には歌の披露など、乗務員は大忙しのようだった。それにしてもクルーによる歌のサービス、こんなうれしいサービスは初めてである。土産物では、野球帽に似たキャップ型帽子が200ペソ(2ドル)と、造りの割りに安かったので、ひとつ購入した。帽子は持ってはきたが、旅行中、現地産の帽子を使うのも悪くないだろう。

かくて、728分、緑一杯のタクロバン空港に着陸、初めてレイテ島の土を踏んだ。

この空港はいかにも南国の空港らしく、滑走路以外はすべて芝生となっており、ちょうど雨上がりの直後だったので、いっそう緑が映えて美しかった。

ちなみに、ここタクロバンとマニラ間は、我々が乗ったセブ・パシフィック航空とフィリッピン航空がそれぞれ12便(日曜は3便)、往復しているとのこと。タクロバンは、ビサヤ諸島東部の商業の中心地だけに、ビジネスマンの行き来が結構あるようである。

 

機内預けの荷物が運ばれてくるのを待ち、まずは、朝食のため、タクロバンの街なかを通って、北へ、レイテ・パーク・リゾート・ホテルへと向かう。途中、左手にイメルダ元大統領夫人の瀟洒な別荘が見えた。

この町は、太平洋戦争時には日本軍の侵略をまともに受け、戦後はアメリカの政策に翻弄されてきたところで。現在は、闘鶏の町としても知られているようであるが、闘鶏は、町の人々の抑圧されてきた心の憂さの発散対象であったのであろうか。

さて、20分ほどでレイテ・パーク・リゾート・ホテルに到着、フィリッピンに着いて初めての食事、遅い朝食(ビュッフェ方式のフィリッピン料理)となったが、正直言って、質量ともいまいちであったのは否めない。それでもここが町一番のホテルであり、観光客唯一の食事場所とのこと。

ただ、このホテルはサンペドロ湾を見下ろす小高い丘の上に位置しているため、湾を挟んだサマール島のダングレー山を椰子の木越しに真向かいに望める等、ベランダから見る景色は素晴らしかった。

 

916分、ホテルを後に観光に出発し、まずは、サンファニーコ大橋を渡ってサマール島へ。

この橋はマルコス大統領時代に日本の援助で建設されたそうで、東南アジアで最も美しい橋のひとつだと言われているらしい。確かに曲線美豊かなフォルムではある。

ちなみにフィリッピンは7000余の島々から成り立っているが、最大の島は首都マニラのあるルソン島、2番目が南部にあるミンダナオ島で、そして3位と4位が、サマール島とレイテ島とのこと。

その両島を結んでいるのが、この2kmにも及ぶ長さを誇るサンファニーコ大橋というわけである。

なお上の写真は、サマール島側からレイテ島側を撮ったものである。

 

さて、サマール島での観光はこれのみで、再び橋を渡ってレイテ島にとって返し、タクロバンを経由して、パロビーチへと向かう。

パロビーチは、タクロバンの5kmほど南にあるビーチで、今ではサンペドロ湾に接する穏やかなビーチとなっているが、太平洋戦争末期、ここにマッカーサー率いる連合軍が上陸作戦を繰り広げ、兵士の血で真っ赤に染まったところで、そのため、別名レッドビーチと呼ばれているとか。

右写真は、それを記念して建てられた7体のブロンズ像で、19441020日に上陸した模様を表現したものであり、大地を踏みしめるその風貌は今でも威厳を放っている。

現在ここはマッカーサー・ランディング・メモリアル公園になっており、一角にマッカーサーの足跡をかたどったもの(左写真)も見られた。

 

 

次いで、パロの町なかにあるパロ教会へ。ちょうど、葬式を終え、人々が出てくるところであった。

この教会の創始は1596年と入口のパネルに記してあったから、由緒あるものに違いない。パロの住民は、米軍上陸の際、ここに避難した由。また野戦病院としても使われたようだ。

そしてその裏手にある山が、海抜160mの十字架山である。山と言うより丘にしか見えないくらい低い山である。津の第33連隊がここにたてこもり、前面の橋を挟んで、米軍と壮絶な死闘を繰り広げたと言う。

古びたその橋は、もちろん修理はされているものの、当時の戦いの激しさを彷彿させるものがあった。

 

次いで昼食へ。「福利飯店」という中華店で、種類も量も豊富に出て、食べきれないほどだったが、最後に出た紫イモのアイスクリームは実に美味であった。これがフィリッピン名物のウベ・アイスとか。

 

昼食後は、太平洋戦争時、激戦のあったことで有名なリモン峠を越えて、今夜の宿泊地オルモックへと向かう。

リモン峠は、第1師団13000人が50日間に及び米兵と死闘を繰り広げたところで、ちょうど雨季とあって兵士は泥の中で眠り泥の中で戦ったという。装備の違いから、日本軍の砲弾1発に対し、米軍は200発も撃ってきて、この峠の戦闘だけで、7500名もの戦死者を出したというから、その惨状を思うと、痛ましさこの上ない。

峠の頂上付近に、第1師団の慰霊碑(右写真)があり、厳粛な気持ちでお祈りした次第である。

近くには、やはりこの付近で戦った第16師団の慰霊碑(左写真)もあったが、銘板は剥がされていた。銅はいい値で売れるので、誰かが持ち去ったのであろう。と思うと、悲しみが一層募った。

 

リモン峠を降って行くこと40分、オルモックの町近くのコゴンという村で一時下車。

ここで見たのが、見るも無残な姿をさらして立っている建物、コンクリートハウスである。

当時、岐阜の立石連隊が立てこもったという話だが、その破壊ぶりから見て、雨あられと降ってくる砲弾がいかに凄まじいものであったか、想像に難くない。平和ボケの我々は、不利な戦況ならば降伏すればよかったろうに、と思ってしまうが、やはり命を賭して戦った当時の兵士に対し不謹慎なことだろうか。

これを見て、広島の原爆ドームに似ていると感じたのは私だけだったろうか。

 

1530分、オルモックのホテル、ドン・フェリペに到着。超早朝出発だっただけに、早めにホテルへ入れたのは有り難い。

オルモックはレイテ島の西海岸にある港町で、やはりここも太平洋戦争時の激戦地のひとつだとか。

現在は、その痕跡も消え、全くのんびりとした静かな風景が広がっているばかりで、つくづく平和の有難みを感じた次第である。

ホテルは中規模ながら、まずまずの造りで、部屋も広くはないがエアコンもあり、ベッドは清潔で申し分なかったが、フェイス・タオルの配備はなかったので、持参した自分のを使った。

ホテルの隣りがマーケットになっていて、出かけた人もいたようであるが、やはり多くの人は部屋で疲れを癒すほうを選んだようであった。

 

18時からホテル内レストランで長テーブルに向かい合っての夕食。初めての晩餐とあって、自己紹介があったが、大正15年生まれで今年79歳の男性が今回で98回目の海外旅行と聞き、びっくり。6月には100回に達する予定だという。

上には上がいるものである。

 

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