2日目(午前

(7/3)

 

タシケント → ヒワ

 

4時30分、モーニングコールで起こされる。眠い。その筈、3時間半しか眠っていない。ナポレオンは、睡眠は3時間あれば十分だったそうだが、英雄と違って下々のものはそうはいかない。

朝食は5時からレストランでとれるようになっていたらしいが、慌しいのは苦手なので、機内食でキープしてあったパンなどを食べて済ませ、身支度後、ロビーへ降りる。

540分、ホテルを出発。木々の幹の下1mくらいがいずれも白く塗られているのが見える。害虫対策だろうか。前回のイランではこれが全く見られなかっただけに、余計目に付いた。

空港にはものの10分ほどで到着。荷物をポーターに託し、国内線ターミナルまで100mほど歩く。

しばし、ツアー仲間と談笑の後、640分、ウルゲンチ行きのHY-1051便に搭乗。現地の人たちは座席番号と関係なく適当に座っていたので、少々みな戸惑った様子。このあたり、お国柄だろうか。

ともあれ、750分に離陸し、ややあってサモサとケーキの軽食がサーブされる。ホテルで無理して食べないで正解だった。

飛行距離は約740km、825分、無事ウルゲンチ空港に着陸。850分、ツアーバスにて目的地のヒワに向かう。約35kmの行程である。道路は綺麗に舗装されており、路面電車も走っていた。

途中、犬が2匹飛び出してきて、危うく轢きそうになったが、急ブレーキで事なきを得た。これがもし轢いてしまっていたら、旅の初めから嫌な気分に陥ったことだろう。

バスの中では、添乗員さんから今回の旅行の大まかな流れの説明があり、またガイドのミキさんからは簡単なウズベク語を教わった。

とかくするうちに、ヒワに入り、930分、イチャン・カラ(内城)内にあるアルカンチ・ホテルに到着した。見晴台まである、周囲の雰囲気に合わせた、なかなか凝った造りではある。

部屋が決まるまでの間、しばし中庭(右写真)でウェルカム・ドリンクを飲みながら待機したが、その暑さは相当なもの。聞けば、既に40度を超えているという。

ややあって指定された部屋は、狭く、エアコンはなし、天井に据付の扇風機があるだけ。仕切られた奥には、トイレは普通にあったが、バスタブはなく、シャワー栓がついているのみ。

昨夜が一流ホテルであっただけに落差は大きいが、郷に入れば郷に従わざるを得ない。

 

さて、1040分、徒歩にてヒワの観光に出発する。

ここヒワは、伝統的なオアシス都市の景観がそっくり保存又は再現されているため、街そのものが「中央アジアの真珠」とも「博物館」とも言われ、1990年以降、世界遺産に登録されているとのこと。

そして、イチャン・カラと呼ばれる旧市街は、二重の城壁で囲まれ、その中にモスク(寺院)とメドレセ(神学校)が各20、ミナレット(尖塔)6塔もあるとか。

まずは西門(アタ門)を通って、イチャン・カラの外へ出、シルクロードの全体図のボードのある場所で説明を受けたあと、再び西門からイチャン・カラ内に入り、観光が始まった。

 

西門は正式にはアタ・ダルヴィサ門といい、アタとは父という意味なので、父の門(アタ門)とも呼ばれているとか。

この門は1920年にヒワが赤軍によって解放された後、道路を通すため一時取り壊されたが、1970年に復元された由。

 

なお、この写真は内側から撮ったものである。

 

次に訪れたところは、ムハンマド・アミン・ハーンのメドレセ(写真右手前)

185155年にかけてムハンマド・アミン・ハーンの命令により建設され、当時は中央アジア最大規模の神学校だったため、最盛期には99人もの寄宿学生がいたそうである。1977年には改造され、現在ではホテルとして利用されている。

中庭には桑や杏の木などがあり、とても静かで雰囲気のいい佇まいであった。

次いでそのすぐ横にあるカリタ・ミナル(写真右奥)の説明を受ける。

カリタ・ミナルは1852年に着工され、当初は中央アジアで最も高いミナレットを目指したが、指示したムハンマド・アミン・ハーンが1855年にペルシアとの戦争で戦死したため、中断されてしまった由。基礎部の直径が14.2mもあるので、完成していたら、7080mにもなっただろうといわれている。色タイルをふんだんに使った装飾はこの時代特有のものとか。

 

次いで訪れたところはクフナ・アルク

クフナ=古い、アルク=宮殿、という意味だとのこと。本来ここは宝物庫や避難所として使われたが、17世紀頃からはハーンの住居、行政府として代々引き継がれたそうで、内部には牢獄跡や今なお水を湛える井戸、外国使節の謁見や即決裁判に使われた王座の間、飾り棚や床の間など日本の文化とよく似たムードのハーンの部屋などがあったが、もうこのときは40度を越す暑さに辟易し、真剣に見ることができなかったのは、いかにも残念であった。

更には外側にある、刑罰を再現した絵などが展示されている法宮の間を経由、北の隅のほうにあるアク・シェイフ・ババの高台に上る。ここはヒワで最古の建物で、14世紀に高名な誰それという人が隠遁していたと言われていて、またハーン国の時期には時計台として使われていた由。最上階は見張り台になっていて、ここからはイチャン・カラ全体が見渡せた。

以下がそこで撮った風景である。

どうぞ拡大して世界遺産ヒワの旧市街の眺めをじっくりご覧いただきたい。

 

さて、午前最後の観光場所はジュマ・モスク。ジュマとは金曜日のことで、イスラム教では金曜日が休日に当たるため、多くの人が礼拝に集まる由。

このモスクの創建は10世紀だが、度々の改築により、現在残っているのは殆どが18世紀改築時のものとか。柱は全部で212本あるが、一本一本彫刻の模様が違い、最古の柱は昔のホレズムの都から運ばれたものだという。他にも4本が1011世紀、25本が1217世紀建造のものとか。屋根に明り取りの小窓が2ヵ所開いているだけで室内は薄暗く、それが林立する木柱とあいまって、実際以上の奥行きを感じさせている。

 

以上で午前の観光を終え、13時ちょうどにホテルに帰着し、直ちに昼食に向かった。

 

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ヒワ内城地図